ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

書き始めるに当たってー前書きに替えて

 ほぼ、早稲田解放闘争に関する著作の構想がまとまった。単著で行くしかないと覚悟した。おおよそ、以下のような心境で書くつもりである。(これがそのまま前書きになるかどうかは、終わってみないと分からない。)この夏は全てをこれに集中する。

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 川口大三郎君が早稲田大学文学部構内で殺害されたのは53年も前の出来事だから、その年に生まれた人が仮に27歳で子供に恵まれたとすれば、そのお子さんが今は26歳で、そろそろまた次の世代が誕生する頃だ。今の10代から20代の人々に分かりやすく説明するのは、世界も変わり日本語も変化しているし至難の技になって来た。例えば「学大(ガクタイ)」と書いても、今はその実態がないから意味不明だろう。それは「学生大会」だった。語彙だけでもバリアは無数にある。

 しかし私は、あの時代を主に今のその世代に分かっていただけるように書き残しておきたいと思う。なぜなら、私たちもその年齢の頃にあの未曾有の悲惨な時代体験をしたからだ。「私たち」には当時の早稲田大学の一般学生や「右派」の人々や教授・職員・理事のみならず、「左派」で党派闘争に走った全ての同時代の人々を含めておきたい。

 差し当たりここでは加害者vs被害者という、ありがちな物語はしないつもりだ。何が起きたのか、それはなぜ起きたのかを、将来世代の為に共に考えて行きたいと思う。「加害」をした者、された者、立場は違えど川口君の不慮の死に驚愕し憤慨して決起した全ての数万人の早稲田大学の仲間、革マル派を含めた内外の当時の諸党派の諸君、全てを含んだ「私たち」はその時代に対する責任があるからだ。

 説明上、敵対関係を描かなければならないと思うが、今の私はそれを今の敵対関係とするものではない。全ては、不幸にして「敵・味方を問わず」亡くなった方々への「喪の仕事」の一環である事を了解していただきたい。

 代島治彦監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ』が20245月に公開された。私も取材を受けて出演している。現役の文学部の学生の一人が映画を見て「学生が学生を殺している」と云う感想を寄せていた。まことにその通りなのだ。

 川口君がリンチの末に殺害された文学部32号館128教室は、今も同じ教室番号で使われている。今はあの一角は、127号教室・128教室となっているが、当時は、127128129130の四つに分けられていた。つまり後者の三つの壁を取り払って広い128教室にしている。本来の学生自治会室は129教室と130教室だったが、革マル派は周囲から孤絶したあの一角を、127から130まで占拠して使っていた。現役の学生諸君は気味が悪いだろうから申し訳ないが、128教室で川口大三郎君は死亡した。没後50年の時、私たち自治会再建運動を闘った第一文学部の仲間は、その教室の前に皆で献花をした。

 「学生が学生を殺している」のは今の学生には全く意味が分からないだろう。なぜそうなったか、当時の政治的対立を少しでも分かっていただきたく、私はここにそれを語り継ぎたいと思うのである。

 歴史はある一コマを深く掘り下げることで、全貌が見えて来ることもあるし、逆に長い展望の中に出来事を位置付けることで、ようやく理解できる場合もある。いずれにしても歴史家は多くの場合、別時代の人物である。今、早稲田解放闘争を語ろうとしている私は、深く掘り下げるにしても、長い展望の中に位置付けるにしても、自らの同時代を、激越な闘争の当事者の一人として、且つ中心にいた一人として語らねばならぬと云う、ある種の感傷(トラウマ)と歴史的責任(証言)と自己の反芻(表象)を避けて通ることはできない。そこに、記憶とフィクションを巡る、回避と記憶の独占と自我の貧困へと向かうやも知れぬ誘惑もあれば、私でしか在り得ない単独性を維持して、未知の読者たちとささやかな歴史を分有できる道筋もあるやも知れない。

 いずれにしても、私自身のメタヒストリー的な水面下の心象と言葉の構築への闘いと贖罪の意識の維持にかかって来よう。事件から半世紀以上も経ち、その間の私自身の生の時間幅と、死者たちの空無の時間幅とを二つながら合わせた喪の仕事になればと願う。最後まで無事な航海を目指して、とにもかくにも出航したい。

 

福島泰樹:第一歌集『バリケード。1966年2月』、第二歌集『エチカ・1969年以降』、第三歌集『晩秋晩夏』、第四歌集『転調哀傷歌』、第七歌集『夕暮』

 福島泰樹1962年に第一文学部入学。1964年春から夏にかけて、第一文学部自治会の主導権を巡って革マル派と諸党派の内ゲバがあり、革マル派敗走。

 これは一次闘争前の事で、同じ事が二次闘争でも起き、解放闘争でも起きている。早大文学部にはこうした政治的構造になる宿命があったのか。革マル派はその二度の敗走からしぶとく組織を立ち上げているが、完全に消滅させたのは私たちの解放闘争によるリコール運動である。

 その時、福島泰樹196472日事件で革マル派を襲った側だが、「瓦解した」闘争後の平穏に耐えきれず早稲田短歌会に没入するようになる。19661月、4年生の卒業の時に、第一次早大闘争に参加したが、覚悟の留年。その後、1967年春に卒業している。197011月から1977年まで愛鷹山の寺にいた。

 短歌界では常識なのだろうか。道浦母都子中核派であったのと同様に、福島泰樹は第二次早大闘争では革マル派シンパの可能性がある。無論、そういう事は文学にとっては瑣末な事なのであろうが、今、早稲田大学のあの時代を表象した群像を俯瞰しながら、第一次早大闘争・第二次早大闘争・早稲田解放闘争へと続く1966年から1970年代を考察しようとしている。その際、どの党派の者であったかは、私たちにとっては、文学表現の解釈を巡って、文字通り死活問題なので拘っている。

 福島泰樹は歌集を編年体で組むので、時代と作品を同定しやすい。

 

第一歌集『バリケード19662月』(196910月刊)

 1965年春から1966年冬までの歌である。

 

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もはやクラスを恃まぬ故のわが無援笛噛むくちのやけに清しさ

 

 第一次早大闘争は、学生会館と学費値上げをめぐって、1966120日に全学バリケードストライキに突入、150日間戦われて622日の文学部バリケード解除で終焉した。

 

クラス旗の黄を選びたる腕章の行動隊ぼく 痩せていたるを

 

 早稲田解放闘争でも同様にクラス旗やクラスプラカードが舞ったので、この情景はよく分かる。しかし翌月にはもう「クラスを恃まぬ」と早々に大衆路線から離れているのは、党派活動に傾斜したからと思われる。実際にこの歌集の後書き「バリケード覚え書き」には以下のようにある。

 

 「662月、孤立し日々先鋭化してゆく中で、私たちが虚ろに発した『学園を革命の砦へ!』というスローガンはいま、鮮烈な実在感をもった言葉となりえた。言葉は、自らの存在を賭したゆるぎない自己否定の果てにこそ、この世界に像を顕しえるのだ。そして歴史へ積極的に投企してゆく主体からこそ、真に私たちが共有しうる新たな時代の詩は産声を上げてゆくのだ。」

 

 関心するのはこれだけの短い文章の中に、自己否定から歴史的主体への展望を語り上げている事だ。ここに、党派も含めた当時の全共闘運動の全てが表象されている。

 

 「自己変革即体制変革といいうるほどにあくまで戦う個の主体に立ち、強固なバリケードは内と外へむかって激しく構築されつつある。」

 

 この言葉もストレートに時代を反映させている。「それは参加の理念をも否定したまったく新しい戦いの萌芽であったのだ。」ともあって、全共闘文法として秀逸で全てを語り得ている。この表現力は大したものだ。

 

 「歴史の弁証法は、現存するイデオロギー自体を否定し凌駕してゆくであろう。私はこの小詩型に思想を盛ろうとは思わなかった。むしろ、私たちが状況の渦中に立たされるとき、浴びなければならない流さなければならない血の意味を、まさに人間存在の愛と闘争の相剋の原点に存するものをこそ、私は全力をあげて歌わなければならなかったのだ。」

 

 ここに福島泰樹の全てがある。政治闘争の敗北後に、反転させて文学へと激しく向かう、短歌という表象形式で。それは敗北でしかなかった中身だから最後は絶叫へと向かったのだろう。私はそれを称揚しているのでも受忍しているのでもない。そういう政治と文学が福島の原点だと分かると云う事だ。

 

煙草かう金残すかな待機せよ永続革命恋わば遥けし

レーニンレーニンよポマードが眼(まなこ)に浸みていたるよ

 

第二歌集『エチカ・1969年以降』(197210月刊)

 19691月より1971年春までの作品。

 福島泰樹1967年春に卒業。1967年春から196812月まではブランク。その間、僧侶の修行をやっていて、歌がない。

 そして第二次早大闘争では、19691月には復帰して早稲田で革マル派シンパとして活動していた。革マル派「同盟員」とは断定はできないが反戦連合を相手にゲバルトをやっていたのは確かだろう。復帰するには人脈がなければできないし、反戦連合は1969年2月に生まれたので福島泰樹には人脈はない。福島泰樹反戦連合なる都市伝説もない。196993日の第二学生学館(反戦連合)・大隈講堂(革マル派)への機動隊導入劇を福島は歌にしていないので、そこまでのコアな活動家ではなかったようだ。第一歌集は196910月に出ているから、直前はそれに傾注していたと思われる。

 19708月、革マル派の東京教育大生・海老原敏夫が法政大学で中核派にリンチ殺害される。その直後、福島泰樹197011月からは沼津市愛鷹山の寺へ住職としてへ移住。私は1971年4月入学なので、すれ違いだ。



愛鷹山へ引っ込んだ後も、1971年にはたびたび上京していたと言う。

 「私は揺れていた。いまだ燻り続ける思いがあったのだ。428沖縄デー、617安保調印粉砕、1021国際反戦デーと、ことあるごとに鈍行列車に乗って上京、集会の片隅で一人怒りを募らせていた。成田にも何度か足を運んだ。『坊さんも、こんなところへ来るのかい』と耳元で囁く公安がいたりもした。俺なんかマークしたってしょうがないだろう。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』(言視社、2022年、p183

 

 当時、後に排除されるが成田闘争へもまだ革マル派は関わっていた。1970年までの早稲田の政治状況から言えば、反戦連合は崩壊していて成田へ行くはずはなく、成田へ重点的に関わっていた中核派解放派第四インターは早稲田から排除されていたので、そのグループで福島泰樹成田闘争に参加するはずはない。4281021も全国党派が闘ったものなので、どう見ても福島泰樹革マル派シンパなのである。



「民青を殺せ」呟きたりしかば一瞬をわれ炎の軍手



 これは立松和平が編集した『早稲田文学』(19702月号・学生編集)に掲載された「エチカ・1965年以降」(これは誤植ではなく1965年で間違いない)の中の、1969年発表の五十五首の一つ。

 「あの時代の脈動が、韻律を刻んだ一首だ。しかし、この昂奮は、翌1970年にもちこされることはなかった。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』言視社、2022年、p149)



叛逆の友へ

きみ戦(そよ)ぎわれも戦(そよ)ぎていたる午后あかるい樫にわれらみられつ

われはいま激しき言葉言葉なき武装の群れに追われしかば

内ゲバで負傷する莫迦しない莫迦ばかばらばらのアバンギャルド

明日は胸に万の血しぶき咲かしめよ 六九年の夜半すぎいつ

赤軍の朋よ先死ね こころいま秋決戦の狂おしき渦

 

 「民青を殺せ」とあるので僧侶修行を関西で終えて、学籍がないにも関わらず早稲田大学で戦って居たのは間違いない。僧侶になったにしては物騒である。内ゲバにも言及している。赤軍大菩薩峠53人逮捕されたのは1969115日、「秋決戦」とは19691116日の佐藤訪米阻止闘争の事だ。

 要するに、福島泰樹は第二次早大闘争では革マル派のシンパとして反戦連合相手に戦っていた。「内ゲバで負傷する莫迦しない莫迦」とまだ角材だけで牧歌的である。それは1970年までだった。福島泰樹が早稲田から離れた197011月以降、急速に内ゲバの質は悪化してゆく。よって、山奥のお寺にいて遠くからハラハラしていた福島泰樹と、実際に手を下して殺し殺されあった者らとの、受け止めは大きく異なる。

 無論、その革マル派と早稲田という現場で衝突していた私たち全学の学生大衆とは、歴史認識の度合いと感性が全く違うのだ。もし、福島泰樹がもう数年早稲田にいて川口君事件を体験していれば、人生も歌も変わっていただろう。そこに福島泰樹の短歌の、のほほんとした無責任性・抽象性・自己発散性の遠因があると思う。

 現に、革マル派崩壊の端緒だった川口君事件には一首の歌すら詠んでない。あれだけ世間を騒がせた母校の闘争だったので、全共闘の一般大衆の一人だったら心を痛めぬはずはない。『自伝風・私の短歌のつくり方』では19722月・3月の連合赤軍事件は「朝からテレビにかじりついていた。」(p187)とあるが、同じその秋118日に起きた川口君事件には一言も言及していない。これも連日テレビや全国紙で大々的に報道されていた。

 岸上大作や樺美智子ほか、あれだけ死者への挽歌を歌い続けた福島泰樹が、山崎博昭(中核派)や川口大三郎(中核派シンパ)を詠えぬのは革マル派の党派的感性を持っていたからだろう。それは次の第三歌集『晩秋挽歌』(1971冬至から1973年晩秋)を見ればよく分かる。「わが中核」「戦死」「振り翳す斧」「血しぶき」「兵士らにつぐ」「殺しあうまで」など、おどろおどろしい殺戮願望の感性ばかりだ。1973年から内ゲバの時代に本格的に突入した背景を反映していると言えよう。

 

 

第三歌集『晩秋挽歌』(197411月刊)

 1971冬至から1973年晩秋。早稲田解放闘争が闘われていた時期。福島泰樹愛鷹山時代。

 

ヘルメット手拭軍手火炎瓶わが中核に措きてうつむく

 

ヘルメットささげもつ手のテノールのかなしかれどもこころ決めつつ

 

振り翳す斧! 叛逆の砦とやなにをいまさらうろたえておる

 

はるかなる兵士らに

山荘に照る月はあり人は死に氷(つらら)つらつら辛き明日今日

桜咲き桜の下に雫する四月の雨は血しぶきならぬ

19723

兵士らに語り告ぐべき言葉とぞ想いて放つ歌の数々

 

若死にの君の未来を生きむため花と銭とを土中に投げる

さつじんとさつばつと吹く風あらば纏いてゆかな殺しあうまで

 



きさらぎの夜半の硝子をしめやかに 往きたる人は来ぬ小糠雨

笑うため仰向いて飲む冷酒のコップ三杯さよならを言う

草を焚き花をいぶして流れゆく煙ひとすじわが砦とや

霧ヶ峰すぎていずこにゆかなむか山梨墓無しわれは甲斐なし

雪の夕暮あかるくあれば泣くほどの悲しみよあれ俯して歌わん



 この五首を『晩秋挽歌』から選んで福島泰樹は述懐する。

 「これらは19732月の作、いわば二十代最後の歌である。六十年代という熱い時代があって七十年を迎え、時代は急速に冷めていった。にもかかわらず、いまだ火照っている自分を精一杯笑おうとしているのである。投げ遣りなのはそのためである。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』言視社、2022年、p189)

 まさにこの川口君事件後3ヶ月の19732月、私たち第一文学部臨時執行部は学生大会において、事件の大学の責任を問うべく学年末試験阻止のストライキを決議し、正規の新自治会執行委員会として選出され直していた。早稲田解放闘争の最大の高揚期であり、4月新年度からの画期を目指して集中団結していた時期である。デモなどでのシュプレヒコールは、「早稲田・解放! 革マル・粉砕(又は殲滅)!」と全学の数万の自治会大衆が一斉に唱和していた。それほど学生達の怒りは凄まじかった。

 その状況はテレビ報道から刻々耳目に入っていたであろう福島泰樹は、「自分を精一杯笑おうとして」「冷酒のコップ三杯さよならを言う」ほど冷めていた。福島泰樹のその「投げ遣り」は単なるメランコリーではなく、あれだけ時代とその政治を歌い上げた歌人が、早稲田解放闘争の熱量を前に詠う根拠を喪失した結果であろうと私は思う。

 

第四歌集『転調哀傷歌』(19766月刊)

 1974年春から1975年春。1975314日に中核派書記長・本多延嘉、革マル派の襲撃で死亡。福島泰樹愛鷹山時代。

 

喇叭行進指揮しゆかんいつの日か思想死という死を笑うため

 

夢なれど背にも肩にも肋にもおおきな痍(きず)をうけてあらわる

 

ヘルメットまぶかく被る若き貌なかに戦死の君も黙(もだ)せり

 

六四年七月三日二号館人を殴った手を拭いていた

 

 

 196910月刊行の第一歌集『バリケード19662月』は、同様のバリケードストライキが勃発していた諸大学でタテカンやビラに多数引用されて伝説化されていた。移転問題で紛争が続いていた東洋大学で講演し、学生たちとインターナショナルを歌い、学生たちが福島の「バリケード」歌を集団で絶唱するのに感動していたのは1975年頃だった。

 

 第三歌集『晩秋挽歌」と第四歌集『転調哀傷歌』の間には明らかに断絶がある。それを福島泰樹はこう書いた。

 「六十年代後半、生者へ向けて希求した連帯の情が、七十年反安保闘争を経て、自嘲・諧謔の色を濃くし、やがて挽歌として内なる歌を紡ぐに至った。」「『転調哀傷歌』という歌集は、私のもっとも弱いこころ、すなわち私の、人を愛するといった情(こころ)が全面に出てきてしまっている。」そしてこう、こう結ぶのだ。「人を愛するこころは、弱い情(こころ)だ。弱いこころが縺れ合い絡み合いしているうちに激しくなる。哀しみや切なさが直立する。ことばが溢れ、滾(たぎ)李、迸(ほとばし)る。それが抒情だ。」(『自伝風・私の短歌のつくり方』pp196197。初出:『早稲田文学19813月号)

 私は自嘲・諧謔へと至るこの断絶は、色々あるにしても、その一つは川口君事件がきっかけだと思っている。早稲田解放闘争という足場から見える一つの解釈である。

 

第七歌集『夕暮』(19819月刊)

 1976年春から1978年冬までの歌。「70年代の総括」としている。1977年6月までは、愛鷹山に居た。

 

岸上も高橋和巳もやって来よ独りの宴たのしかりくんば

せめて死者から直(すぐ)なる精心(こころ)まなびなん村上一郎高橋和巳

 

君は紅蓮の

19774月某日、輸送車内にて焼殺されし級友Fを想いて

 

君に転位なく十年がありたると想いて寒き盃なるに

生きていれば蟹美酒(うまざけ)を分ち合い秋の夜長の灯(ともしび)なるを

消炭色(チャーコールグレー)のレインコートをその時も纏いて紅蓮の炎となりしか

肥前なる杵島(きしま)郡とぞ悲しかる十八歳の君の面はも

杵島郡有明北町四番地ゲバ強かりき男なりしが

心底に深く刺さらぬそのゆえに寂しきかなや酒飲んでおる

君に子と妻があるとう噂なく暗澹として一夜すぎゆく

十二年の歳月ひたすら逃れ来し君に撲(う)たれし肩も快癒す

練馬にてオルグの君に会いたるも乾坤一擲さらばばらばら

君の任務は革命ぼくの任務はやただ存(なが)らいて露となるまで

 

 これは革労協に襲われて革マル派の活動家四人が車内で焼殺された浦和車輌放火殺人事件と呼ばれている。その一人に早大福島泰樹と級友だった者が含まれていた。よほど衝撃を受けたのか、珍しく十首も歌っている。

 

 これ以降の歌集には内ゲバや政治を赤裸々に扱った作品はほぼない。



  「敵対したクラスメート藤原隆義の死であった。後に私は書いている。『私は、あの山間の村で、夏は草を薙ぎ、冬は落葉を焚き、墓守人として七年の日々を過ごしてきた。そして、なおも戦う君たちに遥かに想いを寄せることによって、からくもおのれのなにかを律しようとしていた。」(『自伝風_私の短歌のつくり方』p217

 敵対したのは第一次早大闘争の前の196472日事件の時で、福島は不正選挙を働いた級友の藤原を殴る側にいた。一次闘争の「全学学館学費共闘会議」では分裂や内ゲバは生じていない。一次闘争は全学部に自治会があってそれが理工学部まで含めて全て学生大会でバリケードストライキを決議した。二次闘争のような、やりたいものが勝手にやるという全共闘ではない。その意味では一次闘争と私たちの解放闘争には自治会を基盤にしたと云う近いスタイルがある。

 福島は19673月に卒業したあと僧侶修行で、その頃始まった殴り合い程度の内ゲバ期にはいなかった。そして1969年の二次闘争から学生の身分がないにも関わらず復帰しているが、その時はどう見ても反戦連合ではなく、それと敵対していた革マル派シンパだったはずだ。一年以上のブランクがあって、19692月に結成された後輩達の反戦連合には連なれない。反戦連合結成のビラを書いた津村喬から私は一度も福島泰樹の名前を聞いたことがない。福島が繋がりがあったとすれば藤原たちの革マル派だったのだろう。「なおも戦う君たちに遥かに想いを寄せる」のは、同志的感情がなければあり得ないだろう。反戦連合系だったと思われる立松和平福島泰樹の第一歌集を手に取って驚き、早稲田文学の学生編集委員として原稿依頼のために会いに来たのは1970年であった。それ以前は、福島泰樹反戦連合の接点はない。

 福島泰樹立松和平の『光匂い満ちてよ』について、立松との対談で言っている。

 「人を殺しちゃうわけだよな、あの、ゲバをやっちゃうわけだよな、正義感に燃えて活動始めた奴がさあ、時代が急激にどんどん冷えていって、まわりの連中がだんだん抜けていったんだけど、踏ん切りつかないまま周辺にたむろしていた学生が、気がついたら、内ゲバの指令受けて、断りきれないまま襲撃に参加して、結局人殺しちゃうんだよな。確信してやったんじゃあなくて、運悪くやっちゃったんだよな。

 考えてみれば、俺らのいた時代っていうのは、誰でもがそうなっちゃったか、分からないんでね。俺だってそうだ。最後までやってた連中、ずいぶん死んでいる。」(福島泰樹『さらば立松和平』ウェイツ、2010年、」p181

 もはやここでは、福島泰樹の仲間で最後までやってた連中が随分死んでいると、自分が革マル派であったことを隠そうともしていない。

 早稲田解放闘争からの注釈を付ければ、福島泰樹が痛切に哀悼したこのFは、1973年4月4日、入学式総括会議を襲撃した革マル派部隊の指揮者で自らも鉄パイプで多数に負傷させた人物である。要するに私たちを武力弾圧した早稲田革マル派の指導部の一人だ。まさしく福島泰樹はそっち側の人間であった。

 

 興味深いのは、中核派歌人道浦母都子革マル派シンパ歌人福島泰樹も、高橋和巳に大きく影響を受けている事だ。加えて二人とも、吉本隆明を読んでいる。そう云う時代だったと言えばそれでおしまいだが、ここは考えておかねばならないだろう。高橋和巳197153日に癌で39歳で死亡した。道浦の歌にもあったが高橋和巳が生存していれば、あの内ゲバ戦争はどうなっていたであろう。彼なら押し留めたかも知れないと私は思う。

 

 ここで福島泰樹論をやるつもりはない。ただ私は道浦母都子の繊細な抒情に親密さと感銘を覚える。福島泰樹の不躾な「自己情念の浄化」(三枝昂之)は不快である。大概にしたらどうだ、と思う。感性の底から何か異質なざらつきを覚える。革マル派に特有な感性と論理であるような気がする。あるところで思考停止してあとは一気に暴走するのだ。最初に引用した歌がまさにそうだ。

 

もはやクラスを恃まぬ故のわが無援笛噛むくちのやけに清しさ

 

 

 その1966年2月から約7年後、私たちの早稲田解放闘争によって革マル派自治会は文学部から消えてなくなった。

 

福島泰樹への返歌

恃まれず鉄パイプもて襲われし大衆の決意君らを放逐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道浦母都子『無援の抒情』(雁書房、1980年)、『水憂』(雁書房、1986年)

 道浦母都子1967年に第一文学部入学、その秋、山崎博昭が羽田で機動隊に殺害された事件に衝撃を受け活動を始めた。内ゲバが激しくなって早稲田大学に通えず、主に法政大学で活動した。「全共闘歌人」と呼ばれるが、実際は中核派である。1972年卒業なのでその11月の川口君事件には遭遇していない。大学が試験をほとんどレポートに切り替えたので大量のレポートを書いて卒業した。私とは1年間、ダブっている。

 最初の歌集『無援の抒情』は異例の売り上げをみせ、たくさんの共感を得た。現代歌人協会賞を受賞。その最初の方に「キャンパス」として五首が並べられている。

 高橋和巳を愛読し、歌の中にも出てくる。「隆明」は吉本隆明。「無援」は高橋和巳の『孤立無援の思想』からとったと言う。

 

 以下はやや無造作に内ゲバ絡みのを選んだ。

 

『無援の抒情』(雁書房、1980年)

 

キャンパス

内ゲバに追われ学園去りし日もわれを映しぬ雨のキャンパス

リンチ受くる少女のかたえを通るときおし黙りおり唖者のごとくに

報復の名のもとわれら甘えいて今宵も虚しき血は流さるる

夜を徹し我が縫いあげし赤旗も故なき内ゲバの血に染まりゆく

その夜より報復おそれ帰らざる早稲田よわれの墓標たる門

 

痛み

無感動にまたひとの死に向かうのか激しすぎたりわれらの青春

 

日常

立ち直れぬまで打ちのめされていく日々に読みつぐ隆明高橋和巳

 

何処へ

思想死とせめては呼ばん一人の死長き今年の冬の日に知る

 

鉄パイプの群れに追わるる幻に雪の降る夜を幾度か目覚む

 

闇に呼ぶ声

今朝もまた海荒れていん内ゲバに逝きし一人の夢に顕()つとき

 

彼岸花

成田への旅費借りゆきし白き背よ去りたる党のその後は問わぬ

 

『水憂』(雁書房、1986年)

今生きて在れば何を為すならむ「暗殺の哲学」残しし和巳

 

 

 短歌はなかなか批評し辛い。しかし思想を持った党派の活動家が、思想の言葉や論理でなく、感性と抒情の短歌で内心をあらわにしていて、それが読み手にすっと入って来る。それが世代を越えて共感を呼んだのだろう。活動家たちの親の世代からもたくさんの手紙が寄せられたそうだ。

 

 道浦が卒業した一年後、私たち「ただの一般学生」の第一文学部男女は、やむなく武装して遊撃隊を組織、革マル派と闘っていた。

 

道浦母都子への返歌

訓練中鉄パイプ重しと泣いた女(きみ)我が遊撃隊の誉(ほまれ)なりき 

 

 

山川健一『鏡の中のガラスの船』(『群像』1977年6月号)

  山川健一1972年、商学部入学なので、その秋11月の川口君事件に遭遇している。留年してないとすれば1976年商学部卒業。

 

 金子亜由美によれば、1977年の第二十回群像新人文学賞では、中島梓の「文学の輪郭」が評論部門の新人賞、小説部門では山川健一「鏡の中のガラスの船」と倉内保子「とても自然な、怯え方」の二つが優秀作に選ばれた。(『全共闘晩期』p86) 前年の小説部門の新人賞は村上龍限りなく透明に近いブルー」で、それと「鏡の中のガラスの船」が似ているとされて、惜しくも優秀賞どまりだったらしい。

 それはともあれ、中島梓山川健一の二人が出現したことは、「1977年の群像新人文学賞は、『川口君事件』をいかに『語る』かという問いが、制度的な『文学』の場において、初めて全面に押し出された瞬間と捉えることが可能だろう。」と金子は評している。(同上、p87

 

 主人公の杉本は、高校時代に全共闘運動をノンセクトの黒ヘルでやっていた。「三田村さん」は同じ高校で二学年上、M評(革マル派)のリーダーだったが、ともに二人はJ大学(早稲田大学)に入学した。「三田村さん」は大学でもリーダー。

 杉本は遊園地で本を読んでいて、M評と赤ヘルの部隊が衝突するのを見た。そして赤ヘルの一人の男が負傷したのを助ける。それでその衝突に巻き込まれて赤ヘルをかぶり、機動隊から逃げる。

 M評が対抗している相手党派の一人をリンチ殺害してしまう。杉本の友人吉田はM評のシンパで、その殺害現場に立ち会ってしまう。手はだしていない。三田村は杉本に吉田の代わりに警察に自首してくれと頼みに来る。杉本は断り、逃走するが、最後には遊園地で捕捉され、追われて池に落ちて、多分それで死ぬシーンで小説は終わる。

 三田村が延々と述べる理論や反省の弁は全く革マル派のそれである。虐殺糾弾側の人物は登場しないし、その動きもほとんど描かれていない。つまり早稲田解放闘争は何も描かれていなくて、革マル派側の内情と人間関係だけがこの物語である。

 山川健一は高校時代に全共闘運動に関わっていたと別のところで述べている。おそらく革マル派系のそれだと推測できる。入学した商学部革マル派自治会であったし、早稲田解放闘争後もそこには社会科学部とともに革マル派自治会が残った。山川健一は早稲田解放闘争に参加してないか、または実際に革マル派だった可能性もある。でなければ商学部で卒業はできない。この物語には一言も虐殺糾弾のあの闘いの言葉がない。

 その意味では、金子が言うように中島梓山川健一も「川口君事件」をいかに「語るか」の問いはある。しかし「川口君虐殺糾弾」をいかに言語化し歴史に残すかと云う問いはどこにもない。これは桐山襲の『風のクロニクル』もそうで、1975年や1979年のシーンは出てくるが、桐山が在学中に遭遇している197211月の川口君事件はスキップしている。

 

 現実問題として、革マル派でなかった杉本に革マル派がリンチ殺害の身代わり自首を要求することはありえない。実際問題として想像できるのは、革マル派かそのシンパだった山川健一が、あの事件の後に革マル派から足抜けして逃亡した体験ではないだろうか。早稲田解放闘争のあの高揚と挫折に伴う葛藤などは、ひとかけらもないのである。

 

 金子亜由美が批判するように、村上龍のセックス描写と山川健一内ゲバを「現代風俗としての材料」とみなした福永武彦は許し難いと私も思う。しかしまた、文芸評論家たるものは「鏡の中のガラスの船」の物語の政治的配置図についてもう少し鋭敏である必要があるだろう。全共闘小説と一括りにして論じるのは危険なものである。

 

中上健次

 中上健次は大学受験の為に1966年に上京。その後、高田馬場に下宿して予備校に通ったがすぐやめて、新宿あたりでジャズ喫茶に入り浸っていた。  1967年頃には偽学生として早稲田の学生運動にかかわり羽田闘争にも参加している。一説によれば、山下洋輔トリオがバリケードの中でライブをやった時に、ピアノを大隈講堂から引っ張り出した黒ヘルの一人だった。

 中上健次が早稲田界隈にいたのは確かだ。1974年から1975年2月の頃、ちょうど私の年代が卒業の時だった。無論、私は退学を決めていたのだが、私のパートナーの女性の卒論提出の頃だった。彼女の友人の女性が中上健次の子を宿していて、みんなで深刻な話をしていたのを覚えている。彼女は『早稲田文学』の編集を手伝っていた一人だった。

 しかし、中上健次の文学と早稲田大学全共闘運動との関わりについては、私はそれを論じることは出来ないと思っている。中上はあまりに時代を超越した作家だった。

 

立松和平『今も時だ』(小学館、2015年)

 立松和平1947年生まれ、1966年に早稲田大学政治経済学部に入学。1970年に集英社に内定したが就職をやめて留年、後に1973年に公務員になったりしているので1971年あたりで卒業はしたようだ。

 『今も時だ』については小学館のサイトに以下のような説明がある。

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全共闘運動の記念碑作品。

 肺病病みのピアノ弾きが、献身的な恋人や死んだ両親を思い起こしつつ、騒動に巻き込まれていく。地下室での演奏。電気は消え、反対セクトとの乱闘の中、楽器同士が火花を散らし競演し、脳中にイメージが錯綜していく……。仲間たちと脱出したピアノ弾きは、最後は穏やかな気持ちで自分の吐いた血を見つめる……。
 「JAZZによる問いかけ、自己を武器化せよ! 自己の感性の無限の解放! 」。バリケードの中の投石と怒号渦巻くジャズ・コンサートを描き、全共闘運動の記念碑的作品となった「今も時だ」は、テレビ・ディレクターだった田原総一朗が、1969年に企画した山下洋輔バリケードの中でピアノを演奏したイベントを題材に小説化。新潮新人賞候補となり、商業誌デビューした作者の記念すべき作品。
 ほか、自身の3ヶ月に及ぶインド旅行経験を元に、立松文学の原点を示す「ブリキの北回帰線」と、「部屋の中の部屋」を収録。いずれの作品も若い日の立松の青春の彷徨が描かれている。

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 この時の動画も以下にある。

https://www.youtube.com/watch?v=UJhywjV25KM&list=RDUJhywjV25KM&start_radio=1

 

 この動画以外にも数編がネット上にあって、始まる前から終わるまでの映像を見ることができる。

 さて動画についてはさておき、この小説については「全共闘運動の記念碑作品」とはとても思えない。

 「学生会館にきてくれと言われたが、大学にやってきても同じような建物ばかり、どれが学生会館なのかよくわからなかった。」

 ここから始まり、トリオで合流して演奏会場の4号館に黒ヘルに守られながら行く。

 「校舎の三階四階五階六階からおびただしく黄色いヘルメットをつけた顔がのぞき、さかんに唾をペッペととびちらし、デモ隊にあらんかぎりの悪態を投げつけていた。」

 黄色のヘルメットは共産党系民青派である。この建物は法学部(現8号館、当時は4号館)でその学生自治会は民青派が握っていたのだ。牛乳瓶の空き瓶が上から投げ落とされる。

 とにかくピアノを大隈講堂から引き出して、中に入り演奏会は始まる。そしてそこも黄色いヘルメット部隊に襲われ、空き瓶や火炎瓶が投げ込まれた。

 演奏が終わって脱出する際にも激突となり、ピアニストは最後は倒れてしまう。

 「世界中がななめにかしいだ。ぼくはかたく冷たいコンクリートに頬を押し付けながら、口から泡立ってでてくる血の鮮かさに、すっかり感動していた。日本の紅い花かもしれない、と思った。」

 

 動画で分かる実際とはかけ離れていて、このような騒ぎはなかった。小説だから自由とは言え、誇張が過ぎる。

 情景描写が延々と続くだけで、全共闘運動の内容に触れるものは全くない。それが立松和平という作家なのだろう。「全共闘運動の記念碑作品」と版元が言いたくなるのは分かるが、そうは思えない。そこは三田誠広桐山襲村上春樹の方がそれぞれ深く描けている。それにしてもあの時代を早稲田大学で過ごした同年代から、立松和平も含めてこの四名もの著名な作家が出ているのは尋常ではない。やがて山村(梁)政明の抗議自殺(1970)川口大三郎リンチ殺害事件(1972)に至るこの前史には、尋常でない何事かがあったのは確かだろう。

 

 このバリケードの中のコンサートは、20227月に大隈講堂で実は再演されている。村上春樹が言い出して山下トリオが受けて立ったらしい。

1969年のも2022年のも、いずれもアルバムもある。

www.youtube.com

https://www.youtube.com/watch?v=btVf46Wnuds

 

 

 

続・桐山襲『風のクロニクル』(1985年、河出書房新社、初出『文藝』1984年11月号。)

 第二次早大闘争は19694月に開始され、10月頃に収束した。93日に第二学生会館(今日の26号館の場所にあった)の全共闘派と大隈講堂の革マル派が機動隊によって排除されて終わった。約半年である。1966年の第一次早大闘争も150日間で半年くらいのものだった。それに比べると早稲田解放闘争は、民青系と新自治会系・行動委系の二つの一周年集会に別れたとは言え、一年ちょっとはやった。第一文学部執行委員会では、樋田君らの民青系が少数派で採決では私たちの方が多数だった。それは樋田君の本にも書いてあって、彼らは「有志」とビラに書いた。

 『風のクロニクル』第三幕は、その93日の機動隊の声から始まる。そして四人が「11月決戦」に党派で参加するかどうかで激論を交わす。

 

 橘:ねえ、おかしいじゃない。いままで全共闘運動だって言ってきて、党派から自立した運動だって言ってきて、肝心な時になると、どうして党派に流れこむの?(中略)

 杉村(主人公):全共闘はね、もう機能しないんだよ。このことは学生会館の死守闘争で、総括がついているじゃないか。俺たちがここにこうして残っているのは、どうしてなんだい? 全共闘は最後まで学生会館に残る部隊を創り出せなかった。自分たちの最後のバリケードすら、責任をもって守りきれなかった。みんな党派が、党派のメンバーの決意の下に請け負ったんだ。だから、いいかい、最早問題は、全共闘か党派かということではないんだ。(中略)

夏川(N):俺はね、橘さんの言うように、全共闘で行くのが理想だと思うよ。武器の水準は大したことなくても、大衆的にやるべきだと思うよ。さもないと、この11月が終わったら、全共闘は根こそぎ消えて行ってしまうような気がするんだ。(中略)そう思うけれど、もう一方で、闘うためにはやはり党派しかなくなっているのも事実なんだ。(中略)

岡田:俺は・・・正直言って、分からないんだよな、この11月が本当に決戦と言えるのかどうか。だから、党派で行く気にはなれないな。そうだ、ベ平連にでもついて行くか。

杉村:どうする、橘さんは。行きたい者は行く、行きたくない者は行かない。武器をもつものは持つ、持たないものは持たない。

橘:おかしいわ。党派で行くという人が、どうしてそんなところで全共闘の論理を持ち出してくるの? そういう論理の使い分けこそ、ご都合主義なんだ、日和見なんだ、(中略)」(河出書房新社pp98100

 

 物語としては結局、夏川は杉村と一緒に党派で行き逮捕される。岡田はベ平連。橘は佐藤訪米実力阻止闘争の二日間、「何も食べずに、水さえも飲まずに」下宿に閉じこもっていた。後に夏川と橘は結婚、党派の活動を続け、内ゲバ・テロに見舞われる。

 

 現実にはその二日後、196995日に、日比谷野音で全国全共闘連合結成大会が34千人を集めて開催され、赤軍派とブンド連合が内ゲバを演じた。本来は、全国全共闘の集会は早稲田大学で行われる予定だったのが中止になった。運動は既に後退局面でノンセクトは党派の草刈り場になっていた。この四人の議論はそうした背景の中での議論である。

 

 この新左翼諸党派と全共闘派との緊張関係は早稲田解放闘争においてもあった。川口君事件が起きる前から、1969年以降の緩やかな彼らのネットワークは地下にあったわけで、それゆえに川口君も中核派の集会に出たりしていたのだ。その事件を境に一挙にそれは浮上してきた。だから197212月から19731月にかけて、彼らは連携をとり18日の最初の授業日には100名を超える黒ヘル部隊を登場させ得たのである。それは新自治会執行部には何の連絡もなく突然公然化した。そして激しいヘルメット是非論争が起きた。その段階のヘルメットは防衛よりも政治的象徴であった。それは復権を図る諸党派と元全共闘派・元活動家の連合で、その政治的登場としての黒ヘル集団であった。

 クラス活動家レベルでも臨時執行部防衛の行動隊は組織されていたので、そこからも黒ヘル部隊に引き寄せられた者はいるだろう。代島映画に出ている吉岡由美子さんなどはその典型だ。私のクラスの親友だった男もそうだ。執行部は膨大な情報や状況の変化の前に多忙で、クラス仲間との繋がりは途切れがちになった。WACで活躍した全くノンポリの級友のその彼が半世紀後に、私の家で朝まで飲んだ際に言った。「何で俺をX団に呼ばなかったんだ。」と。

 その全学行動委員会(WAC)が新自治会との連携を維持したのは19732月までで、新自治会を凌駕して独自に打って出るという3月の内部文書が残っている。実際にも入学式粉砕を強行した。

 あとは自らが呼び寄せた革マル派からの反撃が強化される中で、WACは実力闘争にどんどん傾斜して行った。19735月末の彼らの総会で実力決戦が採択されたのだが、その場面で、上記の『風のクロニクル』の四人の議論のようなものがあったと思う。党派の力に頼らないとやっていけない。実際に6月段階で四度もキャンパスでゲバルト正規戦を彼らは諸党派部隊と正規に提携して行い、全面的に勝利している。3月から6月までの四ヶ月間、彼らは自治会再建運動とはほぼ無縁の実力闘争に終始した。だから彼らはその6月で闘争は終わったとしている。それゆえに夏休みには11月の図書館占拠の準備を始めていた。

 

 私は一般学生の代表であったが、橘の立場に近かった。彼女は次のようにも言っている。

 「表現者連合がまだ出来ていないのなら、どうしてこの11月の中からそれを創り、その部隊で11月を闘おうとしないの? たとえ数は少なくても、たとえ力は弱くても、どうしてそれを産み出そうとしないの?」(p97

 

 私たち自治会再建運動にとって諸党派の力が必要になったのではない。彼らの介入によって武力代行主義が広まり、私たち自身の声や表現が奪われ危険な事態になって行った。だから、私たち第一文学部のクラス活動家20数名は、武装を決意してまず行動委員会に参加したが、その流れに与するものではない証に、私が提案して一文行動委だけはヘルメットをオレンジ色にしたのだ。そして最後には行動委員会からも分離してヘルメットをグレーにして1973713日の文学部中庭集会の防衛に臨んだのだ。

 

 橘の最後のセリフには説得力があると思う。

 

 「ねえ、杉村君。わたしたちの関係性、表現者連合さえ未だ産み出すことの出来ないでいるわたしたちの関係性が、どうしようもないものであることはわたしも認めるわ。でも、どうしてそこから出発しようとしないの? 表現者連合は、いま産み出さなければ、永遠に存在することがないのよ。(中略)ええ、この運動の始まる前も、党派しかなかったわ。そしてわたしたちがなくなっても、党派は残るかも知れない。でもねえ、わたしたちを超える党派って何なの、党派って何なの・・・・・・・・・・」(p101

 

 事の中心は自分自身の表現なのだ。私は武装呼びかけのビラに次のように書いた。

 「己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。」

 

 杉村は新婚の夏川と橘が二人で書き始めた散文詩を預かる。そして橘の親指ほどの遺骨を、何事かを期待して、廃人となった夏川が毎朝通い続ける祠に納めに行く。その未完成の散文詩のタイトルが「明るいブルーのインクを使った橘素子の伸びやかな文字で、 風のクロニクル、と書かれてあったのだ。」でこの物語は終わる。橘が産み出そうとした表現がこの物語のタイトルとして与えられる事で、一つの時代が完結したように思われる。

 

 察するに、解放派の活動家だった桐山襲には、テロに倒れたたくさんの友人が居たと思う。この作品はその人々への彼なりの「喪の行為」なのであろう。

 

追記

 第二次早大闘争の生き残りはたくさん居た。「早稲田をなかなか卒業できない学生の会」なるものもあって、彼らが越冬闘争のライブコンサートを1972年12月にやった。あがた森魚山下洋輔トリオなどを呼んで、文学部の181教室でやった。さすがにそれは革マル派は襲撃してこなかった。

 第二次早大闘争の全共闘のまともなのはきちんと卒業したか、津村喬のようにとっくに退学していたのだ。三田誠広にしても桐山襲にしてもちゃんと卒業している。村上春樹も留年はしていても卒業している。『風のクロニクル』に出てくる学生たちは、党派であったとしても全共闘の中でも最良の人間たちだ。

 

追記2

 同名の戯曲が後に本人により書かれ、上演されている。小説のNへの手紙に書かれている部分が織り込まれ、ややぎこちなさを覚えた。ただ、終わりの方で岡田が妻を連れて喫茶店に現れるシーンでは、若い学生たちに「胸を張って全共闘だった」と述べる部分や、「課長補佐昇進、おめでとう」と妻に言わせる部分が付加されている。何事もないかのように管理社会を上り詰めて行く岡田を強烈に揶揄している。

 それから、実際に同名の喫茶店はあったと本人がエッセイで書いていた。後に行くとなくなっていたと。