ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

石坂健治氏の映画批評

石坂健治氏の映画批評 

 

 「1980年の春に早稲田大学第一文学部に入学した一人として、戸山キャンパスの構内でまず目にしたのは教室や廊下や階段のあちこちが破壊された不穏な風景、何かが終わったまま投げ出されて風景だった。バブルに向かう賑やかな世相の中でそうした傷の来歴をもはや顧みようとはせず、私たちはシラケ世代と呼ばれた。

 いま、同世代の代島監督はシラケることなくあの時代を追求している。本作を観て、記憶の喉に刺さった小骨のままだった不穏な風景ともう一度対峙することになった。」

                          (公式Twitterより)

 

 せっかく樋田君が本にし、しかもそれが文庫本にもなり、代島監督が映画にしたのだから、私達の後の世代が、あの時の状況をどのように捉え、意識や思想に内在化するのか大変興味深い。目に付く限りだが、できるだけフォローしている。

 今はまだ正式な公開前なので、こうした試写会で映画を見た方々の感想に限られているが、今後もこれは続け、しっかりした内容のあるものには、あの時の当事者の一人として、責任を持ってきちんと応答したいと思っている。無論、応答に値しないレベルのものには応答しない。

 それぞれに対して統一的な批評はできない。個別の感想や批評は私も個別に受け止めるしかない。

 

 この石坂健治氏の言葉に、私は胸を打たれた。1980年入学ならば事件から7年半後である。事件当時は小学校高学年だったろうから事件自体は覚えてないのだろう。入学して見れば、殺伐としたキャンパス風景。それは私達の戦場の数年後の風景だった。

 ちなみに、今は校舎も綺麗になって、国連ビルと呼ばれた研究棟は立て直されている。裏にあった木造校舎は建て替えられて一階は事務所である。中庭も綺麗にタイル張りになっていて血塗られた戦場だったとはとても想像できない。ただ、スロープ上の大きな石は二つともそのままで、それが物悲しく座っているのが、時間の超越を証明しているかのようである。その石の前で私は村上春樹と立ち話をしたのだった。しかし全景としては1980年代の風景すら今は風化されている。

 

 事件から7年半後の「突き刺さった小骨のままだった不穏な風景」は、52年後の今はない。風景がないのではなく、それを「不穏な風景」と云う表象として見る主体すらいないのだろう。流血の痛みとその記憶とを風景の中に感じ得る世代と、それすらも感知するセンサーのない世代。その事は私などが何を言ってもひたすら過ぎていく時がそう「せしめて」いる。だから、問題は「時」を越えて「時」へ嵌入する人間の感性や構想力と、それを保持する「歴史認識」の屹立の理性の問題なのだ。

 

 シラケ世代に言いたいのは、シラケを理由にして全てをのっぺりと塗りつぶしては困ると云うことだ。無論、その為の情報が不足している。だから樋田君も本にしたし代島監督もそれを映画にした。

 ただ、残念ながら樋田君の本では運動や戦いの真の目的や本質が描かれていない。「非暴力主義」の自分らはこうやりました、暴力を振るう人がこんなに増えましたから、運動はだめになりました、のような視点でしか描かれていない。その論理は最後には川口君をもその「過激派」の中に組み入れてしまう。

 川口君が殺されたのは、彼がそんな行動を取る前にその意思を持っていただけで狙われたからだ。私の理解だが、川口君はリンチされる最中にも徹底的にそれに戦いを挑んだはずだ。そういう性格の男だった。嘘でもいいからあっさり屈服すれば1時間で返されたはずだ。少なくとも彼の死後に私が川口君に連帯したのはそれが根拠である。私でもそうしただろう、と。「過激派」という括りで全てを見るのは楽なことだ。政治的支配の側の論理がそうだからだ。それで行くと、川口君も「過激派」になってしまう。

 今の世代が、革マルと中核や三派や、しまいには日本赤軍と民青の区別もできないほどに政治音痴にされているのは、長年の脱政治化プロパガンダでそうなったのだろう。「過激派」と括れば全部が楽に見えてしまう。半世紀も前だから無理もない。

 石坂健治氏の感想を読んで思ったのはそう云う事だ。「もう一度対峙する」ならば、良く考えて欲しい。

 

 

 

 

5月5日先行上映会@早稲田奉仕園の反響

この映画の公式Twitterにこの上映会の感想がいくつか載っている。

 

「早稲田での試写会で鑑賞
3年間通った建物で、学生が学生を殺していた
知らなかった、しかし知るべきだった学生闘争の歴史を、実際に経験した先輩方の口から学ぶことができ、本当に良かった」

 早稲田の現役の学生は約20人ほどが見に来ていた。鴻上さんが問いかけて手をあげてもらったのだ。その一人の感想。3年通ったなら今は4年生か。戸山キャンパスの学生だ。樋田君の本が出た2021年秋も、知らなかったと云う学生や教員の感想があちこちに出ていた。それから数年経ったが、やはり知らされてないようだ。知る為のチャンネルがない。その意味でも代島監督のこだわりのこの映画は、歴史をつなぐ大きな役割を果たしている。

 

「あの頃活動してた面々も揃い、会場にいて、年取ってもカクシャクとして、目つき、言動に凄みがあった。…彼らの中では、1970年代で時間が、止まっている様だった…」

 当日、「関係者」と云うことで出演者に発言が求められ、四名が発言した。順番に書けば、大橋・野崎・永嶋・二葉だったと思う。大橋は政経学部行動委員会で総長拉致団交の張本人、野崎は一文学生自治会副委員長、あと二人は川口君のクラスメート。さて、「目つき、言動に凄みがあった」のは誰であろうか。私が用意したレジュメは70部しかなく、その倍ほども集まった聴衆からリクエストがたくさん来たので、このブログも始めることにしたのだ。

 四人の中で、いやパネリストを含めて七人の中で、パレスチナに連帯して5月1日に本部キャンパス・大隈銅像前で約200人を集めてスタンディングデモ・集会をやった現役学生に言及し、激励し、過去の歴史に学んで欲しいと締め括ったのは、私だけだった。多分、それをやった諸君の中の20人ほどが見に来ていたと思ったので。歴史はバトンタッチされた。

 その「スイカ同盟」の集会は、早稲田大学において、おそらく私達が1973年7月に最後の学生集会をやって以来の51年ぶりの、党派によらない、学生による自発的な政治集会だと思う。見事な演説であった。我々年寄り組もこれを支援し、見守り、応援すべきである。

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「ゲバルト : 制度の暴力に対する抵抗の変遷」

 標記の展示会がある。種々、考えさせられそうなので、是非、見に行きたい。早稲田解放闘争で私達が直面していたのも「制度の暴力」であった。政府から大学管理の指示を受けた大学と云う機構そのものが革マル派と云う暴力装置を備え、一体となった構造的暴力を学生に対して剥き出しにしていた。その犠牲者の一人目が山村政明氏であり二人目が川口大三郎君だった。私達が自治会再建で立ち向かったのはその構造的暴力である。

 以下がその告示文である。宣伝文だから著作権でもあるまい。全文引用する。見に行くのはだいぶ先になりそうだが、いずれ感想を書いてみたい。

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この展覧会は、制度の暴力の中で特定の芸術形態がどのように発展していくかを示そうとするものである。それは、同時に、社会活動、反乱、現代の革命的な闘争における芸術の役割を問う。

「ゲバルト」とはドイツ語で「暴力」を意味する。1960年代、日本の国家と警察の暴力に直面した新左翼は、「ゲバルト」という言葉をつかみとった。彼らの語法によれば、「暴力」は体制側による暴力、言い換えれば国家の目的に奉仕する暴力を意味し、逆に「ゲバルト」はその反動、つまり「反暴力」を意味した。反暴力は、法維持的暴力に対するすべての抵抗の副産物として、反乱の手段と正当性についての考察と切り離すことはできない。ヴァルター・ベンヤミンの暴力批判に沿うものであり、 1928年5月1日に『Le Réveil anarchiste (アナーキストの覚醒)』にあらわれたエリコ・マラテスタの言葉も想起させる。彼は、奴隷は常に正当防衛の状態にあり、「主人や抑圧者に対する反乱は、常に道徳的に正当化される」と説明したのだった。

「ゲバルト」展で展示される作品は、反乱のメタファーや積極的参画実践に基づいている。国家の暴力、資本主義の制度的抑圧、あるいは制度的権威主義プロパガンダ、検閲、監視)に直面したこれらの作品は、様々な反暴力的反応とその美的様式を反映するものだ。

この展覧会は、制度の暴力に対するこうした様々な抵抗の形を視野に入れている。見出される芸術のパフォーマティヴィティや、直接行動で社会に変化をもたらす可能性についての政治的な問いは、歴史的なアプローチに基づいている。

加えて、ゲリラの経験に付随する芸術形態と、抵抗の触媒として機能する活動との対決は、反暴力と非暴力の接点において、政治的行動の様式と呼応しながら、闘争的な芸術表現の様々な様式を検証する。

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続・『映画芸術』第74巻第2号、2024年春号。

 この雑誌の「ゲバルトの杜」特集の40ページに2枚の写真がある。その下の写真は、私が新入生歓迎実行委員会委員長として編纂した『彼は早稲田で死んだ』(1973.4.2発行)であり、その目次が見える。

 幅広く、かつバランス良く、をモットーにして編纂した。冒頭の詩は募集したもの。二番目は樋田委員長の挨拶。三番目が時系列的事実経過。そして川口君のクラス2Jからのアピール。以下、種々の活動単位からの報告またはアピールとなっている。諸団体からの報告では、二文の臨時執行部は兄弟組織なので当然だが、私は一文行動委員会とサークル連合にも執筆依頼した。これらは私自身が厳しく批判していた相手であり、自治会再建には本気ではなく、全共闘スタイルでやりたいことを勝手にやるグループである。早い段階で武装革マル派と激突していた。樋田君の著作では「鬼子」と表現されている。自主講座グループは私の関わった「大学とは何か」と問うた自主的グループ活動なので私が書いた。あと私が書いたのは編集後記だけである。一番分量が多いのは最後の座談会で、司会は私である。

 編集しながら、この運動はきちんと歴史に残さねばならないと私は思っていた。この時点での関わった限りの声は掲載できていると思う。

 本部キャンパスのいくつかの学部は分からない。これと同様のものを作ってはいない。それぞれの臨時執行部がどこまで実質的に活動できていたのかすら分からない。政経学部の委員長だったM氏はあれだけ初期の映像にも残っているように精力的にやっていたが、どこかで消えた。今は連絡すらできないようだ。政経学部商学部や社会科学部や教育学部の臨時執行部の人々はどこへ行ったのだろうか。全学行動委員会系の人々は今でも忘年会や同窓会や亡くなった仲間の追悼会には出てくる。部外者だがたまに私も顔を出す。没後50年の集会には全学で約100名が集まった。政経のU君は亡くなっていて奥さんが来ておられた。一文での別途集会には約20人くらいだったか。

 要するに私の印象では本部キャンパスの方では全学行動委員会系が跋扈し、新執行部の活動はどこでどうなったかすら分からない。だからドキュメンタリー映画にも彼らは出てない。当時の学生で映画に出ているのは12人、その内9人が一文でその4人は執行委員である。残りの一人は体育の授業を一緒に受けていただけの商学部、二人が全学行動委員会の中心人物=「鬼子」の頭目の二人である。

 それに比べると一文サイドでは、樋田君は本を書いたし、2Jを中心とする仲間は10年を費やして膨大なアーカイブを残している。付録のようにして私も「X団顛末記」を公開した。

 もちろん、一文の仲間でも確信(犯?)的に顔を出さないものはいる。行方が分からない執行委員だったものもいる。そう言う意味でも、この映画が成立したのが奇跡であるのは、関係者の年齢的限界もあるが、偏ってはいても、あの運動を自分の現代史として今も生きている群像がこれだけいたからなのである。

 

『映画芸術』第74巻第2号、2024年春号。

映画芸術』第74巻第2号、2024年春号。

 この雑誌に「ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ」が取り上げられている。代島治彦監督へのインタビュー、向千衣子氏のエッセイ、鼎談(絓秀実、亀田博、花咲政之輔)の三篇で構成されている。私は普段はこの雑誌を手にしないが、くだんの亀田博君が知らせて来たので、苦労して探して読んだ。
 代島監督が加藤典洋の「『絶望』、『あきらめ』と隣り合う『希望』」と云う言葉を最後に引用しているのが印象的だった。コロンビア大学学生運動のメンバーだったラッド氏によればアメリカには内ゲバはないらしい。イタリアやドイツではややあったらしい。
 私はネパールに長く住んでいた。ちょうど1990年代の民主化運動の頃だ。学生たちは運動の中心で、会議派系と共産党系の学生集団は対立しており、路上のデモ隊が武装しているのを目撃した事がある。武装と言っても、鎌やノコギリやカナヅチや農具なんかのその辺にあるもので、どこか牧歌的だった。やりあったりしてはいたのだろうが、死者が出たとはニュースになってない。もし出てたら大変なニュースになるお国柄であった。悲惨な内ゲバは日本的現象のようだ。
 向千衣子氏によれば、「私がいた1969年10月末までは中核、解放派構造改革派の一派も対立・拮抗しながらも、皆一文キャンパス内にいた。」そうだ。この人は文面からすれば革マル派の活動家だったようで、それでも「何がターニングポイントになったのか」と「被害者一人、加害者二人」の身近にいた革マル派をあげている。この文章の語り口にしても、私たちの世代の逼迫感はない。1969年から1972年の間の変化は何だったのか。国際政治的な変化は大きい。旧左翼にして新左翼にしてもその大きな変化に追いつけていないようだったと思う。三島由紀夫自死した。連合赤軍事件も企業爆破もあった。日本赤軍は日本を飛び出し、文革は1976年まで続いていた。しかしそこから内ゲバを語るわけにもいかない。
 鼎談についてはあまり語るものがない。一緒に闘っていたので亀田君は良く知っていて彼の語る内容は、是非はともあれ理解できる。あとの二人については、そういう人もいるのかと言うしかない。絓氏は同時代、花咲氏は遅れて来た世代である。そこからすれば、樋田君の著作への反発は当然だろうと思う。私も樋田君の著作は非暴力主義なる虚構的世界観で運動全体を覆ってしまい、歴史をカリカチュアにしてしまったと思っている。樋田批判では私は人後に落ちない最善の当事者である自信がある。だが、そう言う非難を想定しながら、あれだけのドキュメントを良く残したとそこは拍手を送る。批判する者たちはまずそこは評価すべきであろう。それがなければ、そう言う怒りも非難も場末の飲み屋で終わっていたのではないか。
 反戦連合の高橋公氏の話が出ている。「69年第二次早大闘争の『英雄』」らしく、絓氏には「ハムちゃん」のようだ。ハム氏の著作を読んだ事がある。英雄とは思えない薄っぺらい内容だった。実は、全学行動委員会の者たちが、ハム氏を連れて来て、私に合わせた事があの闘争の最中にあった。彼らにとっては英雄だからなのであろう。彼らは知らなかったろうが、私は1968年・69年世代で、ただの一般学生ではなかった。紹介されたハム氏は何かを期待して黙っていた。私は言う事もないのでじろっと睨んで何も言わなかった。そしたら、何秒か気まずい静寂の後に、黙ったまま彼は去って行った。全学行動委員会にとっては英雄だったのかもしれないが、少なくとも私はその「ご指導」を拒絶した。これも「世代のねじれ」の一コマであった。

 

 朝山実氏が映画に出演した若い役者さん四人にインタビューしている。とても良い座談会なので、皆さん見に行かれるといい。その最後の方で以下の感想がある。

「映画は事件後、革マルの暴力に反対して立ち上がった学生たちの動きを証言や資料などをもとに追っていく。暴力に反対していた彼らの中から、圧倒的な暴力に抗するには自衛手段として自分たちも武装する必要があるという意見が出てくる。社会や政治に無関心なノンポリ学生、セクトを嫌いノンセクトで行動していた人、革マル派ではない党派にいた人たちの混成だった。そして、自衛としてヘルメットを被る人たちが登場する。そうした流れを見ながら、四人のひとりがこう言ったのが印象的だった。
『やむなくとはいえ、当時の体験を語るその口調に、熱気のあった時代の渦中に自分もいたんだという、晴れがましさのようなものを感じたんですよね。もちろん革マルと彼ら(自治会改革に立ち上がった学生たち)がまったく同じだとは思わないんですけど』」

 映画には、これに関連しては当時の早稲田の学生五人が出ていてこういう話をしている。名前も顔も出ているから書けば、臼田(政経学部)・大橋(政経学部)・吉岡(一文)・岡本(一文)・野崎(一文)だが、上記の文章から見て、朝山実氏はこの五人をひとかたまりに見ているようだ。しかし、臼田・大橋は全学行動委員会・全学団交実行実行委員会の中心メンバーで、早くに黒ヘルで武装を始め、入学式に黒ヘルで乱入したり総長拉致団交をやった。岡本は一文二連協の武装防衛隊、野崎は一文武装遊撃隊X団で、1973年7月から集会の武装防衛に当たった。後者は前者を厳しく批判し対立していた。だから上記の役者さんの一人が語った感想が実際は前者向けなのか後者向けなのか、気になる所である。

 「晴れがましさ」とは何であろうか。確かに臼田や大橋は自治会再建運動とは無縁で、運動を劇場化しては登場し存在証明的な晴れがましさを演出した。後者の二人も、50年後の今の反省的理性が働いて自己解説しているところがある。しかし、私は前者を容認するつもりは今でもないが、前者も後者も当時は絶望的な日々を送っていたのは共通している。問題は、監督の出演依頼を拒絶した者、そもそも出演リストにも上がらない数千・数万の早大生がいることの方にある。彼らは無言である。顔も名前も晒して覚悟して出演したものは、当時の立場は異なろうと、語り部としての使命感を最低限持ち、歴史の前に立とうとしたのである。それを晴れがましく思うか屈辱と思うかは、本人たちのマターである。前者二人はいざ知らず、後者二人のゲバルトは、自治会自衛であって内ゲバではない。熱気のあった時代などと、死線を走った者たちを蜃気楼の人物のように見ない方がいい。

 

 

note.com

河原省吾さんの感想(X上にて連投)
    (公開のXなので、再掲載させていただきます。)
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川口事件をめぐる 樋田毅氏とも 行動委員会とも違う当事者 野崎泰志さんの証言。 貴重な証言だと思う。 『彼は早稲田で死んだ』(樋田) や 『声なき絶叫』(川口君追悼集) や 『情況』2023冬号とも 読み比べて、 当時の状況全体を 想像して考え直してみたい。

もしも 自分がその時その場所にいたら どうしただろうかと 自問しながら 各証言を読む。 実際にどうしたかについては 結局その場にいないと 分からない部分が残る。 自分の信頼する人間が どこにいたかとか 、自分がそこに加わらないと 見捨てることになってしまうとか。もちろん自分の信念や思想も重要だが。
座り込みとか 集会を防衛するとか 日本も昔はそんなことまでやっていたのかと 感じるかもしれないが、 海外に目を向ければ 問題が起これば 人々は立ち上がる。 日本が むしろ珍しいのだと思う。
川口事件は内ゲバではないし 内ゲバという言葉の拡大適用には 悪意すら感じる。
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 河原さんのTwitterに集めた文献や資料の写真があった。大変よく集めてある。私が編纂した『彼は早稲田で死んだ』(1973.4.2)まである。当時の関係者が身近におられたのだろう。
 このパンフの中で私が執筆したのは、「自主講座グループ」と「編集後記」だけである。編纂するものがまとまった文章を掲載するのは良くないと考えたからだ。巻頭の「詩」は募集した。5つか6つ集まった中から選んだ。残念ながら元の資料を失ったので作者が分からない。座談会のメンバーも私が人選して集めた。行動委員会の者にもスペースを与えた。
 この新入生歓迎パンフは1973.4.2、まさに入学式の日に出来上がった。早朝に私は印刷屋に取りに行き、急いで入学式が行われている記念会堂(戸山キャンパス)へ戻ったが、全学行動委員会が乱入した後で、新入生はゾロゾロと会場から出てきていた。手分けしてできるだけ渡した。その一つが河原さんのご自宅にあるわけである。
 裏表紙の内側に、空白はもったいないと思い、「九原則」を入れた。写真を選択し、そのキャプションも私が書き、座談会を文字起こしし、記事の配列を考え目次を作った。3月はこれで多忙だった。新入生に自治会運動に参加してもらうのが、自治会再建の決め手だと思ったから、手をあげてこれを担当した。真剣に作った。
 そしたら、行動委員会の連中が入学式粉砕などと、我々執行部との合意事項(3月30日)を破って勝手に乱入した。3月31日の彼らの対策会議で一方的にこれを破棄して粉砕を決めている。自治会再建は彼らの目標ではなかったのである。いつの時代にも短絡的な発想しかできない行動主義者はいるものだ。本当に革マル派を倒すならば、新自治会を大学に公認させて正統性を確保してからのはずだ。公認は目前で、それは95%まで達成されていた。そこまで行っていれば、我々の武装は必要なかった。たとえ執行部の数人が犠牲になったとしても、暴力に対しては徹底した告訴戦術で潰せる。未公認では当事者性がなくそれはできない。本当に大学に責任を取らせるならば、新自治会との協議の中でそれを公式に認めさせ、共同発表するのが正しい。闇雲に総長を捕まえて団体交渉して「憂さ晴らし」をしても何も得られない。東大闘争でもそうだった。それが本気で自治会再建を追求していた私の構想だった。
 多くの学友を負傷させたこと、自治会再建が成功しなかったことを、選出された執行部の一人として私は全学友にお詫びしたい。それが私の中退の理由であり、総長宛に手紙を書き、そう記し、合わせて抗議もして、私は早稲田大学を去った。