ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

55年目の卒業

 私事ながら、と言っても日記なので私事で良いのだが、やや書くのは気後れを伴うので、そうなる。

 

 本日、早稲田大学文学部(西洋史・中澤達哉ゼミ)を卒業した。

 

 2024年4月に学士入学し2年間がたった。無事に学びを終え、卒業となった。

 ついでに言えば、2024年5月に代島治彦監督『ゲバルトの杜』は公開されたが、その一月前から、私は文学部の学生に戻っていた。

 戦場だったキャンパスに足を入れ、教室で平穏を装って学ぶのはやや気後れを覚えた。川口大三郎君が他界した32号館228教室で、岡真里教授のパレスチナ論の講義を受けた。岡先生がガザの虐殺虐殺と言うその部屋は、私にとっては虐殺の部屋だった。

 

 1971年4月に入学し、1973年に社会学科へ進級、そのまま革マル派との対峙があって、一度も授業には出られず中退した。入学から数えれば55年後の卒業となった。

 

 卒論(本文50143字)は、以下である。

 「小帝国ネパールにおける近代化と王制の展開:破砕帯から緩衝国家へ

ー大英帝国・大清帝国・ロシア帝国の狭間におけるエスニシティとナショナリズムの相剋ー」

 

 これは、西洋史でも東洋史でも誰も扱っていない領域の問題で、オリエンタリズムを引きずっている現在の帝国論(帝国主義論ではない)に、南アジアから一石を投じた。理論的には、ベネディクト・アンダーソンとD・スミスのナショナリズム論批判でもある。その確信は得たので、書き継ぐつもりで、教員推薦で修士課程への進学も決まっていた。だが、残念なことに、私の健康上の理由でそれはやむなく自分から辞退した。これからは、体を労りながら、ゆるりと研究を続けたい。

 

 私は1972年のことは黙って文学部に通っていたのだが、ある教授が「野崎さん、映画を見ましたよ」と言ってきてバレてしまった。以来、教授レベルからゼミ仲間まで、私が臨時執行部の副委員長だったことは知れ渡ってしまった。別名「映画俳優」ということにもなっている。

 

 私が学士入学した動機は、学べなかった悔しさである。それと、同じく学び続けられなかった川口大三郎君の悔しさを思った。それで、同行二人のつもりで学び直す決心をした。卒論は川口大三郎君に献呈した。私にできる最後の「喪の仕事」であった。

 

 早稲田大学史学会編の『史観』という紀要がある。本日その「第194冊」を受け取った。日本史、東洋史、西洋史、考古学の論文が掲載される。時に、教員だった者の物故者の追悼文が出る。今回、野口洋二名誉教授(2025年9月没、享年92歳)のそれが掲載されている。野口助教授は当時、学生担当教務副主任だった。代島治彦『ゲバルトの杜』の1時間7分あたりで、181大教室における集会で学生たちから厳しく追求されているその人である。リンチ現場の教室まで行っていながら救出できなかった責任を問われた。

 

 「先生は1972年に助教授に昇進された。そして乞われて学部の学生担当教務副主任に就任されたのだが、就任してそれほど経たないうちにとんでもない出来事に巻き込まれてしまった。その年の11月8日に、第一文学部の二年生だった川口大三郎君が、学生自治会を握っていた革マル派から中核派のシンパ、それどころかスパイという疑いをかけられて、当時自治会室があった木造校舎に連れ込まれ、残虐なリンチで殺害される事件が起こったのである。全共闘運動が崩壊してセクト同士のいわゆる内ゲバが激しくなってから剣呑な雰囲気が高まっていたのは承知していたが、まさかすぐ傍に大勢の学生がいる場所で凄惨なリンチを行うところまで荒廃しているとは予想もしなかった。それだけに、翌日の新聞を見て愕然とした。野口先生はいっそうそうだったに違いない。当日、先生は当番教務で、他の人たちと一緒に革マル派と接触して川口君を救出しようと努めたようだが、彼らの威嚇的な態度のために果たせなかった。後から考えてみれば救出できる唯一の方法は警察の出動を要請することだけだったろうが、あの当時にそれを決断できる人は早稲田大学に誰一人いなかっただろう。しかし、野口先生は川口君を救えなかった責任を痛感して、早稲田大学の教員を辞めたいと思っていると私に話された。もちろん、大学としての責任を言うならばいっそう大きな問題はそれまでの大学や学部の革マル派に対する姿勢に関わる構造的なもののほうにあったのは明らかだったし、結果的に先生が辞職されることはなかった。しかし、野口先生は、一貫して自らに厳しいモラリストであった。」(大内宏一「追悼 野口洋二先生」『史観』第194冊、pp121-122)

 

 野口洋二先生が辞職を考えておられたことに、やや安堵を覚える。私も勤務大学で教務委員をやった事があるが、あれは若い教員から順番にあたるのである。たまたま緊急事態に接したとしてもマニュアルがあるわけではない。大内宏一先生が言うように、「構造的なもの」に責任の本質はある。ここまで言うのは、大内宏一先生が樋田毅の本も代島治彦の映画もちゃんとみているからだろう。映画の中で私が構造的暴力と言ったことも知っているはずだ。

 

 『史観』には、その年度の卒業論文の題目が氏名抜きに掲載される。私のもそこにある。同じ号で、野口洋二先生への追悼文もあれば、当時、臨時執行部の副委員長だった私の卒論題目が並んでいる。稀有なことだと思った。

 

 そう言えば、今の総長は田中愛治君である。文学部の執行部だということで、向こうからやってきて、当時、何度か話したことがあった。私の卒業証書に彼の名前が載っているのも奇遇と言えば奇遇である。

 

追伸 川口君が「木造校舎」で殺害されたと言うのは間違いで、その手前の32号館228教室であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

酒井杏郎編著『代島治彦の奇妙な謝罪』(情況出版、2026.2.10)

Amazonで予約しても3月9日に到着とあって困っていたら、水谷保孝さんから2月18日に寄贈を受け助かった。なぜ困るかと言うと、今私が書いている著作に直結するからで、三週間も待たされると、実務的にも精神的にもその時間が惜しいのであった。

 さて、一読して驚いたのは、代島監督が『ゲバルトの杜』の取材で私の自宅へ見えたのが2022年11月下旬だったと思うのだが、その前後の数年間、こうした緊張したやり取りがあったのを知ったからだ。あの映画はこの代島監督糾弾運動と時期的に重なっていた。例えば、2023年3月1日の合同会談において、代島監督は早稲田解放闘争の映画がどういうのになるのかを問われ、「構造的暴力が違う段階に入ってエスカレートしてしまう。」と言っているのだが(p231)、それは私が彼に説明した言葉だ。この頃にはほとんど編集は終わっていただろう。なぜなら私が最後の取材だと言っていたからだ。ついでに言うと、私が取材を受けた時点では、映画のタイトルは樋田君の本と同じ『彼は早稲田で死んだ』だった。しかし、私の取材を終えた直後に『ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ』となった。X団の事を聞いてから変えたのは間違いない。

 この「構造的暴力」は当時私が勝手に作ったのだが、のちに、平和学においてつとに使われていたキーワードだと友人から教えられた。平和学会で講演したこともある私としては、実に浅学非才の極みであった。平和学のそれはマクロの安全保障の問題だが、私のそれはミクロの早稲田村から得た実感だと云う違いはある。だが、代島監督からの手紙によれば、重信房子氏がこれに反応したそうだ。

 

  特集上映にご登壇予定の重信房子(試写に来場)さんが、映画の感想で、「私た

ちも構造的暴力に対してゲリラで闘うしかなかった。」と言っていました。野崎

さんの語りに反応していたようです。(2024.4.3)

 

酒井杏郎さんとは、2024年7月6日の、『ゲバルトの杜』批判のシンポジウムの際にお会いした。その後の懇親会でこの代島監督問題を、車椅子から提起された。実は、シンポの前に近くのコンビニのような所で飲み物を買っていたら、車椅子の方が居られて気になっていた。その方が酒井さんだったのは、懇親会で分かった。私は障害学会の会員であったし、講義科目の一つは障害者福祉論だったので、私に何かできることはないかとすぐに思うのだ。

 

この書物を読んでまず思ったのは、これだけの批判にも関わらず代島治彦監督は何も変わってないという事だった。と言うのは前作『君が死んだあとで』をトレースする形で同名の著作を出し、そこで山﨑博昭さんの死因を轢殺にした(私も長くそう思わされていた)。実際は警棒による撲殺だった。問題は国家権力が学生を殺害したか、「学生が学生を殺したか」なのだ。無論、権力もメディアもこぞって後者を宣伝した。ここで代島治彦監督の歴史観というか新左翼史観が露出している。謝罪をしながら同時に出した論文があって、それは「血塗られたバトン」を次世代の自分は受け取りたくない、という主張であった。菅孝行も言うように、この拒否感と言うか「邪悪な暴力」観(p147)が代島治彦監督の本質なのであろう。したがって、山崎博昭さんの死は「学生が学生を殺した」としなければならない内面的な必然性があった。あの改竄は確信犯だと思う。権力が学生を殺した物語は代島世界観においては「血塗られたバトン」にならない。

それは『ゲバルトの杜』においても同様で、前半の早稲田解放闘争と後半の東大生死亡事件とは何の必然性もないのだが、接続している。そこに一貫したテーマがあるとすれば「学生が学生を殺した」ことだけである。川口大三郎君の死も、神奈川大学での二人の革マル派の死も、東大生の死も、全てそれである。樋田君が書いた物語は、きっかけは「学生が学生を殺した」事件だった。しかしそれは自治会再建運動としての早稲田解放闘争だったし、私たちのX団対抗武装闘争もそうだ。そこには何も「学生が学生を殺す」物語はない。だからあの映画ではそれらはほとんど描かれていないのだ。X団は、私が「武装遊撃隊を組織した」とはキャプションで一瞬あったが、名前すら出て来ない。後にどなたかとの対談で初めて彼は明かしている。つまり、私たちのような大衆武装と正統な抗戦があり得るという事が、代島史観を突き崩す事に気がついたのだろう。

代島監督は「血塗られたバトン」をのみ描こうとしている。次世代の自分はそれは受け取らないと。そこからすると、山崎博昭さんの死は、「学生が学生を殺した」事件でなければならなかったのだろう。その必然性が『ゲバルトの杜』にそのまま現れている。したがって、『君が死んだあとで』から『ゲバルトの杜』に至るまで、権力側の「暴力反対」の代弁を代島監督は演じていると言っていい。

 

前田和男さんの巻頭論文は、今の私にとって大変有益だった。実は私も1969年、関西学院大学文学部入学で、入試は機動隊に守られていた。或る哲学の教授に私淑するつもりで行ったのだが、半年以上、ほとんど授業はなかったので中退した。だから私も全共闘世代で、あの時代のことは分かっている。

酒井さんの、羽田闘争から日大闘争へも、規模や切迫さは異なれど、良くわかる。時期はずれるが、1972年の相模原戦車搬出阻止闘争から早稲田解放闘争へと私も生きていた。

菅孝行さんと塩野谷さんの対談は、質が高い。暴力論の中で、数回、X団に言及して下さった。感謝である。菅さんが初めて「早稲田の自治会『奪還』闘争」(p145)と云う言葉を使われたのは、他の皆さんにはわからないかも知れないが、私にとっては人生最上の誉となった。当時、共に、信濃忍拳を修行した仲間として、その早稲田解放闘争への連帯的理解に対して、菅孝行さんに改めて敬意を表したい。

 (あ、だけどね、菅孝行さん。ゲバ棒って書いている。私たちの時は、もはやゲバ棒でなくて鉄パイプ。その違いは思想的にも大きいです。負傷の度合いも命のかけようも違います。鉄パイプで学生大衆が自衛武装。そんな事、二度とないほうがいいです。菅さんの時代と、かなり覚悟が違います。実際にたくさんの負傷者を出しました。)

 水谷保孝さんの論考は、いつも私に指針を与えてくれる。その厳しさの中に常に一貫性を覚える。この数年、お互い老いての交流であるが、当時の時代を共有できている実感がある。当時、私は全ての党派の諸君に対して、自重して欲しいと言い続けたのだが、もし水谷さんとそこで出会っていたとして、それを受け入れてくれたかどうか。おそらく無理だったろう、時代の勢いがある。その意味で、今の時代においてお会いできた事は、時代を振り返る時期において、大いなる奇貨として大切にしたい。

私は、川口大三郎君は、中核派でなかったかも知れないが、最も果敢に革マル派と闘ってくれた同級生だと思っている。それでなければ、あそこまで拷問されない。不幸にしてそれが死を招いた。つまり彼の死は、当時の早稲田の学生総体の気持ちや意思を担っていたのだ。でなければ、あそこまで全学の学生は決起しない。

 

 

 

 

書き始めるに当たってー前書きに替えて

 ほぼ、早稲田解放闘争に関する著作の構想がまとまった。単著で行くしかないと覚悟した。おおよそ、以下のような心境で書くつもりである。(これがそのまま前書きになるかどうかは、終わってみないと分からない。)この夏は全てをこれに集中する。

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 川口大三郎君が早稲田大学文学部構内で殺害されたのは53年も前の出来事だから、その年に生まれた人が仮に27歳で子供に恵まれたとすれば、そのお子さんが今は26歳で、そろそろまた次の世代が誕生する頃だ。今の10代から20代の人々に分かりやすく説明するのは、世界も変わり日本語も変化しているし至難の技になって来た。例えば「学大(ガクタイ)」と書いても、今はその実態がないから意味不明だろう。それは「学生大会」だった。語彙だけでもバリアは無数にある。

 しかし私は、あの時代を主に今のその世代に分かっていただけるように書き残しておきたいと思う。なぜなら、私たちもその年齢の頃にあの未曾有の悲惨な時代体験をしたからだ。「私たち」には当時の早稲田大学の一般学生や「右派」の人々や教授・職員・理事のみならず、「左派」で党派闘争に走った全ての同時代の人々を含めておきたい。

 差し当たりここでは加害者vs被害者という、ありがちな物語はしないつもりだ。何が起きたのか、それはなぜ起きたのかを、将来世代の為に共に考えて行きたいと思う。「加害」をした者、された者、立場は違えど川口君の不慮の死に驚愕し憤慨して決起した全ての数万人の早稲田大学の仲間、革マル派を含めた内外の当時の諸党派の諸君、全てを含んだ「私たち」はその時代に対する責任があるからだ。

 説明上、敵対関係を描かなければならないと思うが、今の私はそれを今の敵対関係とするものではない。全ては、不幸にして「敵・味方を問わず」亡くなった方々への「喪の仕事」の一環である事を了解していただきたい。

 代島治彦監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ』が20245月に公開された。私も取材を受けて出演している。現役の文学部の学生の一人が映画を見て「学生が学生を殺している」と云う感想を寄せていた。まことにその通りなのだ。

 川口君がリンチの末に殺害された文学部32号館128教室は、今も同じ教室番号で使われている。今はあの一角は、127号教室・128教室となっているが、当時は、127128129130の四つに分けられていた。つまり後者の三つの壁を取り払って広い128教室にしている。本来の学生自治会室は129教室と130教室だったが、革マル派は周囲から孤絶したあの一角を、127から130まで占拠して使っていた。現役の学生諸君は気味が悪いだろうから申し訳ないが、128教室で川口大三郎君は死亡した。没後50年の時、私たち自治会再建運動を闘った第一文学部の仲間は、その教室の前に皆で献花をした。

 「学生が学生を殺している」のは今の学生には全く意味が分からないだろう。なぜそうなったか、当時の政治的対立を少しでも分かっていただきたく、私はここにそれを語り継ぎたいと思うのである。

 歴史はある一コマを深く掘り下げることで、全貌が見えて来ることもあるし、逆に長い展望の中に出来事を位置付けることで、ようやく理解できる場合もある。いずれにしても歴史家は多くの場合、別時代の人物である。今、早稲田解放闘争を語ろうとしている私は、深く掘り下げるにしても、長い展望の中に位置付けるにしても、自らの同時代を、激越な闘争の当事者の一人として、且つ中心にいた一人として語らねばならぬと云う、ある種の感傷(トラウマ)と歴史的責任(証言)と自己の反芻(表象)を避けて通ることはできない。そこに、記憶とフィクションを巡る、回避と記憶の独占と自我の貧困へと向かうやも知れぬ誘惑もあれば、私でしか在り得ない単独性を維持して、未知の読者たちとささやかな歴史を分有できる道筋もあるやも知れない。

 いずれにしても、私自身のメタヒストリー的な水面下の心象と言葉の構築への闘いと贖罪の意識の維持にかかって来よう。事件から半世紀以上も経ち、その間の私自身の生の時間幅と、死者たちの空無の時間幅とを二つながら合わせた喪の仕事になればと願う。最後まで無事な航海を目指して、とにもかくにも出航したい。

 

福島泰樹:第一歌集『バリケード。1966年2月』、第二歌集『エチカ・1969年以降』、第三歌集『晩秋晩夏』、第四歌集『転調哀傷歌』、第七歌集『夕暮』

 福島泰樹1962年に第一文学部入学。1964年春から夏にかけて、第一文学部自治会の主導権を巡って革マル派と諸党派の内ゲバがあり、革マル派敗走。

 これは一次闘争前の事で、同じ事が二次闘争でも起き、解放闘争でも起きている。早大文学部にはこうした政治的構造になる宿命があったのか。革マル派はその二度の敗走からしぶとく組織を立ち上げているが、完全に消滅させたのは私たちの解放闘争によるリコール運動である。

 その時、福島泰樹196472日事件で革マル派を襲った側だが、「瓦解した」闘争後の平穏に耐えきれず早稲田短歌会に没入するようになる。19661月、4年生の卒業の時に、第一次早大闘争に参加したが、覚悟の留年。その後、1967年春に卒業している。197011月から1977年まで愛鷹山の寺にいた。

 短歌界では常識なのだろうか。道浦母都子中核派であったのと同様に、福島泰樹は第二次早大闘争では革マル派シンパの可能性がある。無論、そういう事は文学にとっては瑣末な事なのであろうが、今、早稲田大学のあの時代を表象した群像を俯瞰しながら、第一次早大闘争・第二次早大闘争・早稲田解放闘争へと続く1966年から1970年代を考察しようとしている。その際、どの党派の者であったかは、私たちにとっては、文学表現の解釈を巡って、文字通り死活問題なので拘っている。

 福島泰樹は歌集を編年体で組むので、時代と作品を同定しやすい。

 

第一歌集『バリケード19662月』(196910月刊)

 1965年春から1966年冬までの歌である。

 

2

もはやクラスを恃まぬ故のわが無援笛噛むくちのやけに清しさ

 

 第一次早大闘争は、学生会館と学費値上げをめぐって、1966120日に全学バリケードストライキに突入、150日間戦われて622日の文学部バリケード解除で終焉した。

 

クラス旗の黄を選びたる腕章の行動隊ぼく 痩せていたるを

 

 早稲田解放闘争でも同様にクラス旗やクラスプラカードが舞ったので、この情景はよく分かる。しかし翌月にはもう「クラスを恃まぬ」と早々に大衆路線から離れているのは、党派活動に傾斜したからと思われる。実際にこの歌集の後書き「バリケード覚え書き」には以下のようにある。

 

 「662月、孤立し日々先鋭化してゆく中で、私たちが虚ろに発した『学園を革命の砦へ!』というスローガンはいま、鮮烈な実在感をもった言葉となりえた。言葉は、自らの存在を賭したゆるぎない自己否定の果てにこそ、この世界に像を顕しえるのだ。そして歴史へ積極的に投企してゆく主体からこそ、真に私たちが共有しうる新たな時代の詩は産声を上げてゆくのだ。」

 

 関心するのはこれだけの短い文章の中に、自己否定から歴史的主体への展望を語り上げている事だ。ここに、党派も含めた当時の全共闘運動の全てが表象されている。

 

 「自己変革即体制変革といいうるほどにあくまで戦う個の主体に立ち、強固なバリケードは内と外へむかって激しく構築されつつある。」

 

 この言葉もストレートに時代を反映させている。「それは参加の理念をも否定したまったく新しい戦いの萌芽であったのだ。」ともあって、全共闘文法として秀逸で全てを語り得ている。この表現力は大したものだ。

 

 「歴史の弁証法は、現存するイデオロギー自体を否定し凌駕してゆくであろう。私はこの小詩型に思想を盛ろうとは思わなかった。むしろ、私たちが状況の渦中に立たされるとき、浴びなければならない流さなければならない血の意味を、まさに人間存在の愛と闘争の相剋の原点に存するものをこそ、私は全力をあげて歌わなければならなかったのだ。」

 

 ここに福島泰樹の全てがある。政治闘争の敗北後に、反転させて文学へと激しく向かう、短歌という表象形式で。それは敗北でしかなかった中身だから最後は絶叫へと向かったのだろう。私はそれを称揚しているのでも受忍しているのでもない。そういう政治と文学が福島の原点だと分かると云う事だ。

 

煙草かう金残すかな待機せよ永続革命恋わば遥けし

レーニンレーニンよポマードが眼(まなこ)に浸みていたるよ

 

第二歌集『エチカ・1969年以降』(197210月刊)

 19691月より1971年春までの作品。

 福島泰樹1967年春に卒業。1967年春から196812月まではブランク。その間、僧侶の修行をやっていて、歌がない。

 そして第二次早大闘争では、19691月には復帰して早稲田で革マル派シンパとして活動していた。革マル派「同盟員」とは断定はできないが反戦連合を相手にゲバルトをやっていたのは確かだろう。復帰するには人脈がなければできないし、反戦連合は1969年2月に生まれたので福島泰樹には人脈はない。福島泰樹反戦連合なる都市伝説もない。196993日の第二学生学館(反戦連合)・大隈講堂(革マル派)への機動隊導入劇を福島は歌にしていないので、そこまでのコアな活動家ではなかったようだ。第一歌集は196910月に出ているから、直前はそれに傾注していたと思われる。

 19708月、革マル派の東京教育大生・海老原敏夫が法政大学で中核派にリンチ殺害される。その直後、福島泰樹197011月からは沼津市愛鷹山の寺へ住職としてへ移住。私は1971年4月入学なので、すれ違いだ。



愛鷹山へ引っ込んだ後も、1971年にはたびたび上京していたと言う。

 「私は揺れていた。いまだ燻り続ける思いがあったのだ。428沖縄デー、617安保調印粉砕、1021国際反戦デーと、ことあるごとに鈍行列車に乗って上京、集会の片隅で一人怒りを募らせていた。成田にも何度か足を運んだ。『坊さんも、こんなところへ来るのかい』と耳元で囁く公安がいたりもした。俺なんかマークしたってしょうがないだろう。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』(言視社、2022年、p183

 

 当時、後に排除されるが成田闘争へもまだ革マル派は関わっていた。1970年までの早稲田の政治状況から言えば、反戦連合は崩壊していて成田へ行くはずはなく、成田へ重点的に関わっていた中核派解放派第四インターは早稲田から排除されていたので、そのグループで福島泰樹成田闘争に参加するはずはない。4281021も全国党派が闘ったものなので、どう見ても福島泰樹革マル派シンパなのである。



「民青を殺せ」呟きたりしかば一瞬をわれ炎の軍手



 これは立松和平が編集した『早稲田文学』(19702月号・学生編集)に掲載された「エチカ・1965年以降」(これは誤植ではなく1965年で間違いない)の中の、1969年発表の五十五首の一つ。

 「あの時代の脈動が、韻律を刻んだ一首だ。しかし、この昂奮は、翌1970年にもちこされることはなかった。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』言視社、2022年、p149)



叛逆の友へ

きみ戦(そよ)ぎわれも戦(そよ)ぎていたる午后あかるい樫にわれらみられつ

われはいま激しき言葉言葉なき武装の群れに追われしかば

内ゲバで負傷する莫迦しない莫迦ばかばらばらのアバンギャルド

明日は胸に万の血しぶき咲かしめよ 六九年の夜半すぎいつ

赤軍の朋よ先死ね こころいま秋決戦の狂おしき渦

 

 「民青を殺せ」とあるので僧侶修行を関西で終えて、学籍がないにも関わらず早稲田大学で戦って居たのは間違いない。僧侶になったにしては物騒である。内ゲバにも言及している。赤軍大菩薩峠53人逮捕されたのは1969115日、「秋決戦」とは19691116日の佐藤訪米阻止闘争の事だ。

 要するに、福島泰樹は第二次早大闘争では革マル派のシンパとして反戦連合相手に戦っていた。「内ゲバで負傷する莫迦しない莫迦」とまだ角材だけで牧歌的である。それは1970年までだった。福島泰樹が早稲田から離れた197011月以降、急速に内ゲバの質は悪化してゆく。よって、山奥のお寺にいて遠くからハラハラしていた福島泰樹と、実際に手を下して殺し殺されあった者らとの、受け止めは大きく異なる。

 無論、その革マル派と早稲田という現場で衝突していた私たち全学の学生大衆とは、歴史認識の度合いと感性が全く違うのだ。もし、福島泰樹がもう数年早稲田にいて川口君事件を体験していれば、人生も歌も変わっていただろう。そこに福島泰樹の短歌の、のほほんとした無責任性・抽象性・自己発散性の遠因があると思う。

 現に、革マル派崩壊の端緒だった川口君事件には一首の歌すら詠んでない。あれだけ世間を騒がせた母校の闘争だったので、全共闘の一般大衆の一人だったら心を痛めぬはずはない。『自伝風・私の短歌のつくり方』では19722月・3月の連合赤軍事件は「朝からテレビにかじりついていた。」(p187)とあるが、同じその秋118日に起きた川口君事件には一言も言及していない。これも連日テレビや全国紙で大々的に報道されていた。

 岸上大作や樺美智子ほか、あれだけ死者への挽歌を歌い続けた福島泰樹が、山崎博昭(中核派)や川口大三郎(中核派シンパ)を詠えぬのは革マル派の党派的感性を持っていたからだろう。それは次の第三歌集『晩秋挽歌』(1971冬至から1973年晩秋)を見ればよく分かる。「わが中核」「戦死」「振り翳す斧」「血しぶき」「兵士らにつぐ」「殺しあうまで」など、おどろおどろしい殺戮願望の感性ばかりだ。1973年から内ゲバの時代に本格的に突入した背景を反映していると言えよう。

 

 

第三歌集『晩秋挽歌』(197411月刊)

 1971冬至から1973年晩秋。早稲田解放闘争が闘われていた時期。福島泰樹愛鷹山時代。

 

ヘルメット手拭軍手火炎瓶わが中核に措きてうつむく

 

ヘルメットささげもつ手のテノールのかなしかれどもこころ決めつつ

 

振り翳す斧! 叛逆の砦とやなにをいまさらうろたえておる

 

はるかなる兵士らに

山荘に照る月はあり人は死に氷(つらら)つらつら辛き明日今日

桜咲き桜の下に雫する四月の雨は血しぶきならぬ

19723

兵士らに語り告ぐべき言葉とぞ想いて放つ歌の数々

 

若死にの君の未来を生きむため花と銭とを土中に投げる

さつじんとさつばつと吹く風あらば纏いてゆかな殺しあうまで

 



きさらぎの夜半の硝子をしめやかに 往きたる人は来ぬ小糠雨

笑うため仰向いて飲む冷酒のコップ三杯さよならを言う

草を焚き花をいぶして流れゆく煙ひとすじわが砦とや

霧ヶ峰すぎていずこにゆかなむか山梨墓無しわれは甲斐なし

雪の夕暮あかるくあれば泣くほどの悲しみよあれ俯して歌わん



 この五首を『晩秋挽歌』から選んで福島泰樹は述懐する。

 「これらは19732月の作、いわば二十代最後の歌である。六十年代という熱い時代があって七十年を迎え、時代は急速に冷めていった。にもかかわらず、いまだ火照っている自分を精一杯笑おうとしているのである。投げ遣りなのはそのためである。」(福島泰樹『自伝風・私の短歌のつくり方』言視社、2022年、p189)

 まさにこの川口君事件後3ヶ月の19732月、私たち第一文学部臨時執行部は学生大会において、事件の大学の責任を問うべく学年末試験阻止のストライキを決議し、正規の新自治会執行委員会として選出され直していた。早稲田解放闘争の最大の高揚期であり、4月新年度からの画期を目指して集中団結していた時期である。デモなどでのシュプレヒコールは、「早稲田・解放! 革マル・粉砕(又は殲滅)!」と全学の数万の自治会大衆が一斉に唱和していた。それほど学生達の怒りは凄まじかった。

 その状況はテレビ報道から刻々耳目に入っていたであろう福島泰樹は、「自分を精一杯笑おうとして」「冷酒のコップ三杯さよならを言う」ほど冷めていた。福島泰樹のその「投げ遣り」は単なるメランコリーではなく、あれだけ時代とその政治を歌い上げた歌人が、早稲田解放闘争の熱量を前に詠う根拠を喪失した結果であろうと私は思う。

 

第四歌集『転調哀傷歌』(19766月刊)

 1974年春から1975年春。1975314日に中核派書記長・本多延嘉、革マル派の襲撃で死亡。福島泰樹愛鷹山時代。

 

喇叭行進指揮しゆかんいつの日か思想死という死を笑うため

 

夢なれど背にも肩にも肋にもおおきな痍(きず)をうけてあらわる

 

ヘルメットまぶかく被る若き貌なかに戦死の君も黙(もだ)せり

 

六四年七月三日二号館人を殴った手を拭いていた

 

 

 196910月刊行の第一歌集『バリケード19662月』は、同様のバリケードストライキが勃発していた諸大学でタテカンやビラに多数引用されて伝説化されていた。移転問題で紛争が続いていた東洋大学で講演し、学生たちとインターナショナルを歌い、学生たちが福島の「バリケード」歌を集団で絶唱するのに感動していたのは1975年頃だった。

 

 第三歌集『晩秋挽歌」と第四歌集『転調哀傷歌』の間には明らかに断絶がある。それを福島泰樹はこう書いた。

 「六十年代後半、生者へ向けて希求した連帯の情が、七十年反安保闘争を経て、自嘲・諧謔の色を濃くし、やがて挽歌として内なる歌を紡ぐに至った。」「『転調哀傷歌』という歌集は、私のもっとも弱いこころ、すなわち私の、人を愛するといった情(こころ)が全面に出てきてしまっている。」そしてこう、こう結ぶのだ。「人を愛するこころは、弱い情(こころ)だ。弱いこころが縺れ合い絡み合いしているうちに激しくなる。哀しみや切なさが直立する。ことばが溢れ、滾(たぎ)李、迸(ほとばし)る。それが抒情だ。」(『自伝風・私の短歌のつくり方』pp196197。初出:『早稲田文学19813月号)

 私は自嘲・諧謔へと至るこの断絶は、色々あるにしても、その一つは川口君事件がきっかけだと思っている。早稲田解放闘争という足場から見える一つの解釈である。

 

第七歌集『夕暮』(19819月刊)

 1976年春から1978年冬までの歌。「70年代の総括」としている。1977年6月までは、愛鷹山に居た。

 

岸上も高橋和巳もやって来よ独りの宴たのしかりくんば

せめて死者から直(すぐ)なる精心(こころ)まなびなん村上一郎高橋和巳

 

君は紅蓮の

19774月某日、輸送車内にて焼殺されし級友Fを想いて

 

君に転位なく十年がありたると想いて寒き盃なるに

生きていれば蟹美酒(うまざけ)を分ち合い秋の夜長の灯(ともしび)なるを

消炭色(チャーコールグレー)のレインコートをその時も纏いて紅蓮の炎となりしか

肥前なる杵島(きしま)郡とぞ悲しかる十八歳の君の面はも

杵島郡有明北町四番地ゲバ強かりき男なりしが

心底に深く刺さらぬそのゆえに寂しきかなや酒飲んでおる

君に子と妻があるとう噂なく暗澹として一夜すぎゆく

十二年の歳月ひたすら逃れ来し君に撲(う)たれし肩も快癒す

練馬にてオルグの君に会いたるも乾坤一擲さらばばらばら

君の任務は革命ぼくの任務はやただ存(なが)らいて露となるまで

 

 これは革労協に襲われて革マル派の活動家四人が車内で焼殺された浦和車輌放火殺人事件と呼ばれている。その一人に早大福島泰樹と級友だった者が含まれていた。よほど衝撃を受けたのか、珍しく十首も歌っている。

 

 これ以降の歌集には内ゲバや政治を赤裸々に扱った作品はほぼない。



  「敵対したクラスメート藤原隆義の死であった。後に私は書いている。『私は、あの山間の村で、夏は草を薙ぎ、冬は落葉を焚き、墓守人として七年の日々を過ごしてきた。そして、なおも戦う君たちに遥かに想いを寄せることによって、からくもおのれのなにかを律しようとしていた。」(『自伝風_私の短歌のつくり方』p217

 敵対したのは第一次早大闘争の前の196472日事件の時で、福島は不正選挙を働いた級友の藤原を殴る側にいた。一次闘争の「全学学館学費共闘会議」では分裂や内ゲバは生じていない。一次闘争は全学部に自治会があってそれが理工学部まで含めて全て学生大会でバリケードストライキを決議した。二次闘争のような、やりたいものが勝手にやるという全共闘ではない。その意味では一次闘争と私たちの解放闘争には自治会を基盤にしたと云う近いスタイルがある。

 福島は19673月に卒業したあと僧侶修行で、その頃始まった殴り合い程度の内ゲバ期にはいなかった。そして1969年の二次闘争から学生の身分がないにも関わらず復帰しているが、その時はどう見ても反戦連合ではなく、それと敵対していた革マル派シンパだったはずだ。一年以上のブランクがあって、19692月に結成された後輩達の反戦連合には連なれない。反戦連合結成のビラを書いた津村喬から私は一度も福島泰樹の名前を聞いたことがない。福島が繋がりがあったとすれば藤原たちの革マル派だったのだろう。「なおも戦う君たちに遥かに想いを寄せる」のは、同志的感情がなければあり得ないだろう。反戦連合系だったと思われる立松和平福島泰樹の第一歌集を手に取って驚き、早稲田文学の学生編集委員として原稿依頼のために会いに来たのは1970年であった。それ以前は、福島泰樹反戦連合の接点はない。

 福島泰樹立松和平の『光匂い満ちてよ』について、立松との対談で言っている。

 「人を殺しちゃうわけだよな、あの、ゲバをやっちゃうわけだよな、正義感に燃えて活動始めた奴がさあ、時代が急激にどんどん冷えていって、まわりの連中がだんだん抜けていったんだけど、踏ん切りつかないまま周辺にたむろしていた学生が、気がついたら、内ゲバの指令受けて、断りきれないまま襲撃に参加して、結局人殺しちゃうんだよな。確信してやったんじゃあなくて、運悪くやっちゃったんだよな。

 考えてみれば、俺らのいた時代っていうのは、誰でもがそうなっちゃったか、分からないんでね。俺だってそうだ。最後までやってた連中、ずいぶん死んでいる。」(福島泰樹『さらば立松和平』ウェイツ、2010年、」p181

 もはやここでは、福島泰樹の仲間で最後までやってた連中が随分死んでいると、自分が革マル派であったことを隠そうともしていない。

 早稲田解放闘争からの注釈を付ければ、福島泰樹が痛切に哀悼したこのFは、1973年4月4日、入学式総括会議を襲撃した革マル派部隊の指揮者で自らも鉄パイプで多数に負傷させた人物である。要するに私たちを武力弾圧した早稲田革マル派の指導部の一人だ。まさしく福島泰樹はそっち側の人間であった。

 

 興味深いのは、中核派歌人道浦母都子革マル派シンパ歌人福島泰樹も、高橋和巳に大きく影響を受けている事だ。加えて二人とも、吉本隆明を読んでいる。そう云う時代だったと言えばそれでおしまいだが、ここは考えておかねばならないだろう。高橋和巳197153日に癌で39歳で死亡した。道浦の歌にもあったが高橋和巳が生存していれば、あの内ゲバ戦争はどうなっていたであろう。彼なら押し留めたかも知れないと私は思う。

 

 ここで福島泰樹論をやるつもりはない。ただ私は道浦母都子の繊細な抒情に親密さと感銘を覚える。福島泰樹の不躾な「自己情念の浄化」(三枝昂之)は不快である。大概にしたらどうだ、と思う。感性の底から何か異質なざらつきを覚える。革マル派に特有な感性と論理であるような気がする。あるところで思考停止してあとは一気に暴走するのだ。最初に引用した歌がまさにそうだ。

 

もはやクラスを恃まぬ故のわが無援笛噛むくちのやけに清しさ

 

 

 その1966年2月から約7年後、私たちの早稲田解放闘争によって革マル派自治会は文学部から消えてなくなった。

 

福島泰樹への返歌

恃まれず鉄パイプもて襲われし大衆の決意君らを放逐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道浦母都子『無援の抒情』(雁書房、1980年)、『水憂』(雁書房、1986年)

 道浦母都子1967年に第一文学部入学、その秋、山崎博昭が羽田で機動隊に殺害された事件に衝撃を受け活動を始めた。内ゲバが激しくなって早稲田大学に通えず、主に法政大学で活動した。「全共闘歌人」と呼ばれるが、実際は中核派である。1972年卒業なのでその11月の川口君事件には遭遇していない。大学が試験をほとんどレポートに切り替えたので大量のレポートを書いて卒業した。私とは1年間、ダブっている。

 最初の歌集『無援の抒情』は異例の売り上げをみせ、たくさんの共感を得た。現代歌人協会賞を受賞。その最初の方に「キャンパス」として五首が並べられている。

 高橋和巳を愛読し、歌の中にも出てくる。「隆明」は吉本隆明。「無援」は高橋和巳の『孤立無援の思想』からとったと言う。

 

 以下はやや無造作に内ゲバ絡みのを選んだ。

 

『無援の抒情』(雁書房、1980年)

 

キャンパス

内ゲバに追われ学園去りし日もわれを映しぬ雨のキャンパス

リンチ受くる少女のかたえを通るときおし黙りおり唖者のごとくに

報復の名のもとわれら甘えいて今宵も虚しき血は流さるる

夜を徹し我が縫いあげし赤旗も故なき内ゲバの血に染まりゆく

その夜より報復おそれ帰らざる早稲田よわれの墓標たる門

 

痛み

無感動にまたひとの死に向かうのか激しすぎたりわれらの青春

 

日常

立ち直れぬまで打ちのめされていく日々に読みつぐ隆明高橋和巳

 

何処へ

思想死とせめては呼ばん一人の死長き今年の冬の日に知る

 

鉄パイプの群れに追わるる幻に雪の降る夜を幾度か目覚む

 

闇に呼ぶ声

今朝もまた海荒れていん内ゲバに逝きし一人の夢に顕()つとき

 

彼岸花

成田への旅費借りゆきし白き背よ去りたる党のその後は問わぬ

 

『水憂』(雁書房、1986年)

今生きて在れば何を為すならむ「暗殺の哲学」残しし和巳

 

 

 短歌はなかなか批評し辛い。しかし思想を持った党派の活動家が、思想の言葉や論理でなく、感性と抒情の短歌で内心をあらわにしていて、それが読み手にすっと入って来る。それが世代を越えて共感を呼んだのだろう。活動家たちの親の世代からもたくさんの手紙が寄せられたそうだ。

 

 道浦が卒業した一年後、私たち「ただの一般学生」の第一文学部男女は、やむなく武装して遊撃隊を組織、革マル派と闘っていた。

 

道浦母都子への返歌

訓練中鉄パイプ重しと泣いた女(きみ)我が遊撃隊の誉(ほまれ)なりき 

 

 

山川健一『鏡の中のガラスの船』(『群像』1977年6月号)

  山川健一1972年、商学部入学なので、その秋11月の川口君事件に遭遇している。留年してないとすれば1976年商学部卒業。

 

 金子亜由美によれば、1977年の第二十回群像新人文学賞では、中島梓の「文学の輪郭」が評論部門の新人賞、小説部門では山川健一「鏡の中のガラスの船」と倉内保子「とても自然な、怯え方」の二つが優秀作に選ばれた。(『全共闘晩期』p86) 前年の小説部門の新人賞は村上龍限りなく透明に近いブルー」で、それと「鏡の中のガラスの船」が似ているとされて、惜しくも優秀賞どまりだったらしい。

 それはともあれ、中島梓山川健一の二人が出現したことは、「1977年の群像新人文学賞は、『川口君事件』をいかに『語る』かという問いが、制度的な『文学』の場において、初めて全面に押し出された瞬間と捉えることが可能だろう。」と金子は評している。(同上、p87

 

 主人公の杉本は、高校時代に全共闘運動をノンセクトの黒ヘルでやっていた。「三田村さん」は同じ高校で二学年上、M評(革マル派)のリーダーだったが、ともに二人はJ大学(早稲田大学)に入学した。「三田村さん」は大学でもリーダー。

 杉本は遊園地で本を読んでいて、M評と赤ヘルの部隊が衝突するのを見た。そして赤ヘルの一人の男が負傷したのを助ける。それでその衝突に巻き込まれて赤ヘルをかぶり、機動隊から逃げる。

 M評が対抗している相手党派の一人をリンチ殺害してしまう。杉本の友人吉田はM評のシンパで、その殺害現場に立ち会ってしまう。手はだしていない。三田村は杉本に吉田の代わりに警察に自首してくれと頼みに来る。杉本は断り、逃走するが、最後には遊園地で捕捉され、追われて池に落ちて、多分それで死ぬシーンで小説は終わる。

 三田村が延々と述べる理論や反省の弁は全く革マル派のそれである。虐殺糾弾側の人物は登場しないし、その動きもほとんど描かれていない。つまり早稲田解放闘争は何も描かれていなくて、革マル派側の内情と人間関係だけがこの物語である。

 山川健一は高校時代に全共闘運動に関わっていたと別のところで述べている。おそらく革マル派系のそれだと推測できる。入学した商学部革マル派自治会であったし、早稲田解放闘争後もそこには社会科学部とともに革マル派自治会が残った。山川健一は早稲田解放闘争に参加してないか、または実際に革マル派だった可能性もある。でなければ商学部で卒業はできない。この物語には一言も虐殺糾弾のあの闘いの言葉がない。

 その意味では、金子が言うように中島梓山川健一も「川口君事件」をいかに「語るか」の問いはある。しかし「川口君虐殺糾弾」をいかに言語化し歴史に残すかと云う問いはどこにもない。これは桐山襲の『風のクロニクル』もそうで、1975年や1979年のシーンは出てくるが、桐山が在学中に遭遇している197211月の川口君事件はスキップしている。

 

 現実問題として、革マル派でなかった杉本に革マル派がリンチ殺害の身代わり自首を要求することはありえない。実際問題として想像できるのは、革マル派かそのシンパだった山川健一が、あの事件の後に革マル派から足抜けして逃亡した体験ではないだろうか。早稲田解放闘争のあの高揚と挫折に伴う葛藤などは、ひとかけらもないのである。

 

 金子亜由美が批判するように、村上龍のセックス描写と山川健一内ゲバを「現代風俗としての材料」とみなした福永武彦は許し難いと私も思う。しかしまた、文芸評論家たるものは「鏡の中のガラスの船」の物語の政治的配置図についてもう少し鋭敏である必要があるだろう。全共闘小説と一括りにして論じるのは危険なものである。