ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

河原省吾さんの感想(X上にて連投)
    (公開のXなので、再掲載させていただきます。)
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川口事件をめぐる 樋田毅氏とも 行動委員会とも違う当事者 野崎泰志さんの証言。 貴重な証言だと思う。 『彼は早稲田で死んだ』(樋田) や 『声なき絶叫』(川口君追悼集) や 『情況』2023冬号とも 読み比べて、 当時の状況全体を 想像して考え直してみたい。

もしも 自分がその時その場所にいたら どうしただろうかと 自問しながら 各証言を読む。 実際にどうしたかについては 結局その場にいないと 分からない部分が残る。 自分の信頼する人間が どこにいたかとか 、自分がそこに加わらないと 見捨てることになってしまうとか。もちろん自分の信念や思想も重要だが。
座り込みとか 集会を防衛するとか 日本も昔はそんなことまでやっていたのかと 感じるかもしれないが、 海外に目を向ければ 問題が起これば 人々は立ち上がる。 日本が むしろ珍しいのだと思う。
川口事件は内ゲバではないし 内ゲバという言葉の拡大適用には 悪意すら感じる。
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 河原さんのTwitterに集めた文献や資料の写真があった。大変よく集めてある。私が編纂した『彼は早稲田で死んだ』(1973.4.2)まである。当時の関係者が身近におられたのだろう。
 このパンフの中で私が執筆したのは、「自主講座グループ」と「編集後記」だけである。編纂するものがまとまった文章を掲載するのは良くないと考えたからだ。巻頭の「詩」は募集した。5つか6つ集まった中から選んだ。残念ながら元の資料を失ったので作者が分からない。座談会のメンバーも私が人選して集めた。行動委員会の者にもスペースを与えた。
 この新入生歓迎パンフは1973.4.2、まさに入学式の日に出来上がった。早朝に私は印刷屋に取りに行き、急いで入学式が行われている記念会堂(戸山キャンパス)へ戻ったが、全学行動委員会が乱入した後で、新入生はゾロゾロと会場から出てきていた。手分けしてできるだけ渡した。その一つが河原さんのご自宅にあるわけである。
 裏表紙の内側に、空白はもったいないと思い、「九原則」を入れた。写真を選択し、そのキャプションも私が書き、座談会を文字起こしし、記事の配列を考え目次を作った。3月はこれで多忙だった。新入生に自治会運動に参加してもらうのが、自治会再建の決め手だと思ったから、手をあげてこれを担当した。真剣に作った。
 そしたら、行動委員会の連中が入学式粉砕などと、我々執行部との合意事項(3月30日)を破って勝手に乱入した。3月31日の彼らの対策会議で一方的にこれを破棄して粉砕を決めている。自治会再建は彼らの目標ではなかったのである。いつの時代にも短絡的な発想しかできない行動主義者はいるものだ。本当に革マル派を倒すならば、新自治会を大学に公認させて正統性を確保してからのはずだ。公認は目前で、それは95%まで達成されていた。そこまで行っていれば、我々の武装は必要なかった。たとえ執行部の数人が犠牲になったとしても、暴力に対しては徹底した告訴戦術で潰せる。未公認では当事者性がなくそれはできない。本当に大学に責任を取らせるならば、新自治会との協議の中でそれを公式に認めさせ、共同発表するのが正しい。闇雲に総長を捕まえて団体交渉して「憂さ晴らし」をしても何も得られない。東大闘争でもそうだった。それが本気で自治会再建を追求していた私の構想だった。
 多くの学友を負傷させたこと、自治会再建が成功しなかったことを、選出された執行部の一人として私は全学友にお詫びしたい。それが私の中退の理由であり、総長宛に手紙を書き、そう記し、合わせて抗議もして、私は早稲田大学を去った。