ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

亀田博「川口大三郎君虐殺とそれ以後」『本多延嘉ー3・14虐殺死を超えて四十五年』(白順社、2022年1月発行)

 この本は2020年10月の本多延嘉氏「追悼の集い」での発言他を集めて出版されたものである。本多氏は革共同書記長で中核派の最高指導者だったが、1975年3月14日に革マル派に襲われて虐殺された。亀田君は筋金入りのアナキストだが、なぜかそこに呼ばれてスピーチをしている。そのスピーチの文字起こしがこの文章である。

 ここには亀田君の半生が綴られており、私はそれに何も言うつもりはない。亀田君は早稲田解放闘争において全学行動委員会に参加し、図書館占拠闘争にも参加した。どの時点で彼と知り合ったのかは忘れたが多分当初から一緒で、私とは一学年下で一文のPクラスだった。それで私たちの間では通称「Pカメ」と呼ばれている。映画研究会所属でそこの2J(川口君のクラス)の人たちとは親しく、川口君が映画研究会の部室の前で拉致された現場にもいあわせた。それを「救うことなく、革マル派のなすがままにさせてしまった」(p76)事が、一生の負い目になっている。代島監督の映画「ゲバルトの杜」で使われている当時の映像は、亀田君が撮影したものも含めて、彼から提供されている。また亀田君も代島監督から取材を受けたが、本編には採用されていない。結構、樋田君批判を語ったらしい。そこはPカメらしいと思う。

 この文末に付録として「川口大三郎」と題された彼のプロフィールが1ページほどある。

 「早稲田大学学生新聞会へ入部し、五月の早慶戦に行き『早慶戦観戦記』を記載している。しかし、この新聞会が「勝共」(勝共連合統一教会)であることを知り、出入りをやめる。」(p82)

 当時は全国の主要な大学において統一教会が宣教を激しくやっていた。川口君はそれとは知らずにその学生新聞会に関わった。それが今日に至るまで統一教会の宣伝に利用される発端になっている。お墓参りにまで統一教会は行っており、たまたま樋田毅君がお墓の前で出会った事もある。樋田君は言わずとも知れた『記者襲撃ー赤報隊事件30年目の真実』(2018年)を出版した朝日新聞記者で、関連して取材した統一教会の相手もそこにいたそうだ。樋田君の本『彼は早稲田で死んだ』を何冊も持っていて信者などに配布していた。彼らは樋田本を川口本と読み替えて、今でも利用している。

 「(1971年)九月、早稲田精神高揚会に入部。例会にて部落差別問題、人間差別問題について意見を発表したが支持されなかった。」(p82)

  この早稲田精神高揚会は読んで字の如く、右翼サークルである。川口君はこれもすぐやめる。この後、学費値上げ闘争に入り、「革マル派と大学当局との『癒着』『ボス交渉(裏取引)があることを確信。「批判を強める。」(p83)

 そして二年生になってすぐ、「(1972年)四月、中核派系の集会に参加する。特に狭山差別裁判にたいしては積極的に学習し、その内容・内実をクラスに持ち帰り討論した。」(p83)

 これは映画研究会の川口君のクラスメートから直接聞いた話だろう。

 注目したいのはその後だ。

 「(1972年)八月、広島における原水爆反対反戦デモに参加。」(p83)

 広島大学は言うまでもなく中核派の拠点大学。そこの「反戦」だから当然ながら中核派。8月の初旬に川口君は中核派のデモに広島で参加している。従来の説では、7月頃には中核派を離脱した事になっているのだが、この話は私もここで初めて知った。デモ隊の写真は公安や革マル派は必ず撮影するから、そこにいたのは革マル派は承知だろう。あるいは公安が革マル派に流したか。そういう情報の売り買いは、相互に公安と政治党派との間であった。この本にも、1950年代に共産党民青から転じてきた活動家大川治郎が「共産党の情報をいっぱい持っていた。それを権力に売って金をせしめることをやっていた。」(p25)と前例が暴露されている。

 とにかく、8月の広島反戦デモに川口君が参加した事は革マル派がつかんでいた事は間違いない。さて、早稲田大学学生新聞会(統一教会)へ参加し、早稲田精神高揚会(右翼)へも参加し、狭山裁判闘争から次に中核派へも参加した川口君のこの関心の広さは何を物語るか。政治利用という事で言えば、反共団体統一教会から新左翼中核派にまで「うちの者だ」と公然と言われた。これに早稲田精神高揚会までもが「いや、うちの者だ」と主張すれば、三者三様のお笑いコントのネタにされかねない。

 事ほど左様に川口君は色々な事に関心を広げ、或る意味で真っ直ぐに無防備に生きていた。こんな開けっ広げで純粋な、生活費に窮して家屋解体作業のとび職のバイトに明け暮れしていた青年に、既に党派間の死者が何人も出ていた命懸けのスパイなんか務まるわけがない。宮崎駿の『紅の豚』のマルコじゃないが、「そんなのはもっと勤勉な奴がやるものだ。」

 だが、あちこちに顔を出していたと云うだけで疑惑を抱くのが革マル派だった。それに革マル派自治会委員の不信任決議まで2Jクラスは1972年4月か5月に発して、公然と叛旗を翻したのだ。2Jが狙われないわけがない。川口君を狭山裁判闘争に誘った藤野君をリンチすると部落解放同盟から強烈な反発があるから建て前上やれない。ノンポリノンセクト中核派に流れるのが一番の脅威だから、オルグされたばかりの人間を叩く。

 亀田君の証言の中で、やはりそうかと思わされたのは以下である。

 「話はここで、できるじゃないか!!」と二人の革マル派に両側から挟まれて拉致されながら「頑強に抵抗」して、「断固として言い切った」(p76)

 拉致された部屋で川口君は一歩も怯まず、抵抗したはずだ。これは想定外。だから水津則子が廊下に出てきて「私たちは階級闘争をやっているんだ。」と級友たちに叫んだのだ。リンチに効果があったら、そんなに逆上するわけがない。或る意味で川口君はリンチに耐えながらそこまで革マル派を追い込んだ。最後には死をもってまでして追い込んだ。実際に革マル派自治会は私たちの運動で四つ消滅した。25年後には残りの二つも消滅した。

 今も革マル派早稲田大学の文化団体連合会に、党派名を秘匿して残っている。幾つかのサークルに隠れ革マルがいるわけだ。指折り数えられるくらいらしい。しかし自治会費名目の巨額な資金提供を大学から公式に受け、自らの地盤である有権者学生相手に私的警察を組織化し、疑惑のある者は殴る蹴るで大学から追い出し、果ては無防備の学生デモに一個中隊の鉄パイプ部隊で襲いかかり、学生自治会専制政治の舞台と化したような、大学と一体化した構造的暴力構造はそこにはない。

 早大革マル派は、集会・結社の自由を主張し早稲田大学での政治活動を続けたいならば、半世紀前の川口君虐殺事件を真摯に自己批判し、それを全学に公開し許しを乞え。それを今の学生たちが受け入れるならば活動を続ける余地はあるだろう。それができないならば、党派を解体し一から出直すか、速やかに早稲田大学から去るべきだ。一人一人で、胸に手を当てて考えてもらいたい、諸君らの党派にそんな資格があるのか、と。党派名を秘匿しているのはそのやましさを自覚しているからだろう。集会・結社の自由を武力で踏み躙った過去の上に、現在の活動を積み上げる事は、学生大衆の理解を得られないはずだ。今の若い時の時間とエネルギーを無駄に使うべきではない。

 今また、大学の学費値上げ問題が出てきて、諸大学において学生たちが活動を始めている。パレスチナのジェノサイドを受けてアカデミック・ボイコットを訴えてもいる。昨日こそ、東京大学に警官隊が導入された。明治大学では私服警官が常駐しているそうだ。学の独立を高々と校歌で謳う早稲田大学はどうであろうか。