ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

島薗進「統一教会と現代日本の政教関係ー公共空間を脅かす政教のもたれ合いと宗教右派」『情況』(2023冬号)

 この講演記録の文章は、統一教会の理解のためにとても大事なものである。しかし、今はその事には触れない。

 この中に、樋田君の『記者襲撃ー赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店、2018年)が出てくる。この本の奥付きを見ると「著者 樋田毅」の下に「発行者 岡本厚」とあって、1973.7.13の文学部中庭武装集会の日に、後者は二連協防衛隊で参加し、前者は武装自衛に反対でそれを立ち見で傍で見ていたという光景が目に浮かんで来る。歴史の因縁である。

 「樋田さんのこの本はとても優れた内容ですが、非常に慎重に書いてあります。つまり、統一教会という言葉は一言も出てこない。α(アルファ)教会とかα連合とかα研究会とかですね、そういう言葉で、統一教会を名指さないように注意をしております。」(p62)

 確かにそうで、島薗先生が実名で上げてあるような人物も全て樋田君は仮名にしてある。ニュースで既に報じられているような名前でもだ。

 「樋田さんの『記者襲撃』という本は、統一教会メンバーが赤報隊事件の犯人だということはおくびにも出さない。決してそういうことを肯定してはいない。わからないのはわからないのだけれども、そういう可能性が高いなあと思わせるような叙述になっております。」(p65)

 この本は、第一部 凶行(44ページ)、第二部 取材の核心部分I(87ページ)、第三部 取材の核心部分II(62ページ)、第4部 波紋(23ページ)、で構成されている。第二部が右翼関係、第三部が新宗教関係、即ち統一教会の部分である。62ページは全体の三分の一ほどにあたる。

 この本で樋田君は、ここまで書ける、これ以上は書けない、「どうしても書かなければならないこと」の逡巡を行きつ戻りつして、ようやく書き上げた感がある。新聞記者とはそういうものだろう。中でもそれが多いのが統一教会について記述した第三部であり、島薗先生の指摘にあるように極めて慎重に、しかしほぼ断定と言えるほどの情報をさまざまに散りばめている。同時に、「あとがき」にもあるように膨大な量の情報がその背後にあって記述されていない。

 私がここで考えてみたいのは、新聞記者がそうやって様々な制約がある中、何を選び何を選ばないで記事を書いているか、と云うことである。書けるのは、根拠があって書けるもの、あるいは自分が主張したいものであろうし、書けないのは、根拠があっても書けないもの、あるいは自分が主張したくないものであろうと思う。特に統一教会問題は朝日新聞にとってもその記者にとっても死活問題であるし、記者襲撃の真相解明は宿願でもあったから、書く書かない、書ける書けないは報道倫理として鮮明かつ深刻な問いを突きつけられていた。

 その上で、樋田君の『記者襲撃』と『彼は早稲田で死んだ』を、彼の記者生活自叙伝の二部作と考えて批評の対象とすると、何が見えてくるか。彼は『彼は早稲田で死んだ』の単行本の「あとがき」で、「私の人生にテーマがあるとすれば、二人の若者の『死』をめぐる問題を追いかけ、考えることだった。」(文庫本、p290)としている。二人の若者とは、言うまでもなく早稲田大学川口大三郎と散弾銃で射殺された後輩の小尻知博記者である。

  『彼は早稲田で死んだ』の「第五章 赤報隊事件」は早稲田大学での事件や闘争とは何の関係もない。一般の人はそう思うだろう。だからこの章は奇妙な違和感を呼ぶのだ。関連がありそうな事として彼が書いているのは以下の三つだけである。

 「取材対象者の多くは右翼活動家や暴力団関係者だった。ひょっとしたら取材相手が犯人かもしれないという緊張の中で、私は再び、早稲田で革マル派に襲われたときの悪夢にうなされるようになっていた。」(p214)

 「川口大三郎君の虐殺事件では、敵対するセクトの暴力的解体を主張する革マル派が、川口君を敵対セクトである中核派メンバーと誤認し、スパイと決めつけて殺害したが、右翼の世界でも、「内ゲバ」や、スパイ追及による殺人事件が起きていたのだ。」(p216)

 「私はこの時、日本社会の底に広がる『闇の世界』に行くてを阻まれたと考えざるを得なかった。その『闇』は、早稲田で革マル派と闘った時に感じた『闇』と同質のもののように思えた。」(pp216~217)

  「悪夢」と「右でも左でも同じスパイ殺人」と「闇」の三つを読まされて、何の関係があるのかと一般の人は思う。だがそこに、「実はその二人の死は、統一教会がらみで偶然繋がっていたのだ。」となれば、更に樋田君の人生は「小説より奇なり」となるので、誰もが頷くだろう。 

 ところが樋田君の『彼は早稲田で死んだ』の「第五章 赤報隊事件」では、『記者襲撃』の第三部がごっそりと抜け落ちた形でまとめられている。第二部の右翼と暴力団の話しか出てこないのだ。書くか書かないかの逡巡の文言すらない。そして、川口大三郎君が一時的にせよ「早稲田大学学生新聞会」に所属し、それが統一教会系のサークルであり、当初から統一教会が川口君を自分らの関係者だと強く主張して新左翼批判の大キャンペーンを張っていたことも書かれていない。革マル派をリコールした最初の1972.11.28第一文学部学生大会では「一文非暴力推進協議会(原理研)」数人が現れ対案を勝手に配布し、説明させるかどうかで紛糾した。学生証を厳密にチェックしての入場だったので四人から五人は一文に居たのである。村井総長が川口君のご遺族に寄贈した見舞金が統一教会にわたり、そのセミナーハウスがもっぱら統一教会に支配されて研修所として利用され、総長と統一教会の間で裁判でまで争われた事も書かれていない。

 もしそれらが記述されていたら、第五章はなるほど関連性があると読者には伝わる。ではなぜそれらが削除されたのか。統一教会に配慮して、だろう。文藝春秋社がそうさせたのかどうかはわからない。樋田君の本にも島薗先生の文章にも出てくるが、統一教会がらみの記事が『文藝春秋』に掲載されて、寄稿者が襲われ瀕死の重傷を負った事件が起きている。

 結果的に『彼は早稲田で死んだ』は統一教会にとって大変都合の良い本になった。樋田君が川口君のお墓の前で会った旧知の統一教会の男は、樋田君の本をたくさん持っていてそれをお寺さんにも寄贈していた。この本は公安警察や保守政権の「暴力反対」キャンペーンに利用されているだけでなく(文庫本の販促キャンペーンでは、「ウクライナ、ガザ侵攻の今。再評価! 「正義の暴力」に「非暴力で立ち向かった」とある。)、統一教会の反共キャンペーンにも活用されているのである。

 『彼は早稲田で死んだ』に何が書かれていないか、何が付加的に書かれているか、それを考察するとこの著作が当時の早稲田解放闘争の状況のジグソーパズルのどこをどう埋め、どこを埋めていないかが更にはっきりするだろう。次回はそれを考察してみたい。