ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

藤野豊「ドキュメンタリー映画い『ゲバルトの杜』と狭山裁判闘争、『部落解放』2024年6月、855号。

 こう云うのもあるよと亀田博君が教えてくれたので早速読んだ。亀田君は『映画芸術』においてこの映画を論じた鼎談の参加者の一人である。 

 藤野君は川口大三郎君のクラス2Jの一人だった。代島監督のこの映画にも取材を受けて、かなり重要な発言をしている。この雑誌の3500字程度の短いエッセイにおいても極めて重要な情報を開示している。

 この小文の中見出しは三つで、「『ゲバルトの杜』が問う『革命的暴力』」、「川口大三郎の生と死」、「暴力と人権」である。

 藤野君は高校時代から狭山事件に関心を寄せていて、1971年に早大一文に入学以来、ずっとクラスで狭山裁判闘争の活動をしていたとある。映画でも語っているが、川口君を狭山裁判闘争支援へ誘ったのは藤野君である。それが原因で川口君が殺されたと云う自責の念に半世紀もの間苛まれていた。その上で、「狭山裁判闘争における尊い犠牲者として川口大三郎の名を心に刻んでいただきたい。」と締め括っている。(ここはちょと我田引水だと思う。)

 自責の念で事件の真相を明かすことはできなかったが、代島監督から取材を受けた後、それを「『革命と暴力に関する覚書』まとめた(https://www.keiwa-c.ac.jp/wp2021/wp-content/uploads/2023/03/kiyo32-8.pdf)。

 藤野君の自責の念は、以下のように記されている。参加を呼びかけると「真っ先に応えてくれたのが川口大三郎であった。狭山事件についてクラス討論をおこない、狭山の現地調査に参加し、そして公判日には日比谷小公園の集会に級友たちと駆けつけた。しかし、そうした行動が・・革マル派の目に留まった。・・対立する中核派が狭山裁判闘争をきわめて重視していたため、狭山裁判闘争にかかわることが、中核派に通じる反革マル的行動とみなされた。」ここまでは誰もが知る当時の状況である。しかしこれに続く以下の一文が重大である。

 「公判日、文学部キャンパスから日比谷に向かおうとするわたくしたちの前に革マル派が立ちふさがり、わたくしたちはそうした革マル派の妨害を体で突破して日比谷へ向かうこともあった。当然、わたくしたちのクラスは革マル派から狙われた。とくに、正義感の強い川口は『なんでも自由に語れる暴力のない早稲田を!』と主張し、革マル派の暴力支配に強く抵抗した。」

 私は2Jクラスに種々の活動家が居て、彼らが政治思想研究会と映画研究会で合同して叛早稲田祭を実行したのが、川口君殺害の直接のきっかけであるのではないかと論じてきた。しかし、それよりも一年も前からこのクラスは革マル派とここまで対立していたのだ。映画で永島君が言っているが、2Jクラスから10人もの人数が狭山裁判闘争支援に出向いていた。

 藤野君自身も「中核派に何人も知り合いがいたし、オルグも受けた。中核派の集会に参加したこともある。」と書いている。映画でも川口君があまりに中核派的な「実力奪還とか言ってたんで」喧嘩別れしたとも言っている。

 2Jの二葉君が川口君を中核派に誘った男が2Jに居る、と樋田君の本の中で語っていたのは、要するにこの藤野君であるらしい。

 私は当時から今日まで、2Jの諸君とはお付き合いがあって、大抵のことは聞いていたが、藤野君が開示したこの情報、つまり狭山裁判支援へ出向く2Jの10人程度の人数を革マル派が「たちふさがり」妨害したこと、それを「体で突破して日比谷へ」向かったという事だ。完全にグループとして対立している。藤野君もクラスとして狙われたと書いている。そして川口君を含めてクラスから複数の人間が中核派と交流があり、その上、政治思想研究会を立ち上げ、革マル派に文連から追放されたばかりの映画研究会と合同で叛早稲田祭をやり、革マル派に禁じられた映画『PFLP-世界同時革命」をそこで上映した。何の目算があってこんな反逆のエスカレーションに走ったのか。

 藤野君の結論はこうだ。川口君のリンチ殺害は「あきらかに見せしめであった。狭山裁判闘争に参加することは許さない!  早稲田で自由を叫ぶことを許さない!それが、革マル派のわたくしたちへのメッセージであった。」

 この藤野史観は狭山裁判闘争への思い入れがやや強く粉飾気味である。映画でも彼は、革マル派の活動家が法政大学内でリンチ殺害された海老原事件の「報復に過ぎない」と断定的である。この断言調をやや間引きしたとしても、2Jが革マル派の妨害を体で突破したという事実は消えないだろう。革マル派にとっては、一年前から問題クラスの筆頭であったのではないだろうか。

 藤野君は勤務先の紀要に「革命と暴力」に関する長い文章を書いている。「50余年を経て書くことができたわたくしの事件への総括である。」とこの雑誌の小文で紹介している。私としてはその論文も熟読した上で、再度、藤野君の言説について考察してみたい。