本文40ページ、註2ページ、約4万8千字の長いものである。川口君と同じクラスの藤野君が代島監督の取材を受けた後に、半世紀後にようやくまとめた総括であると言う。見出しは以下の通り。
1 1972年11月8日:3ページ
2 戦後民主主義が生み出した「革命と暴力」
(1)日本共産党における「革命と暴力」:8ページ
(2)日本社会党における「革命と暴力」:6ページ
3 川口大三郎虐殺をめぐる「革命と暴力」の連鎖
(3)日本共産党の「トロッキスト」批判の論理:5ページ
4 50年を経た総括:4ページ
目的はについては最初のところに以下のようにある。
「戦後日本で、革命をめぐる論議が自由となり、さらに革命を求める政治活動も自由になったにもかかわらず、日本共産党や日本社会党は、革命にともなう暴力についての具体的な議論をあえて避け曖昧なままに放置し、また、革マル派などの『新左翼』は『革命的暴力』を正当化してきたことがあげられる。わたくしが、小稿で追及するのは、この点である。」(p139)
動機については以下のようにある。
「小稿は、川口大三郎を死に至らしめたことへのわたくしの償いとして執筆される。わたくしは川口に部落差別の現実を知らせ、彼が部落解放運動に参加する道を開き、彼はその過程で一時期、中核派の集会やデモにも参加することとなり、その結果、革マル派に虐殺された。わたくしは、川口の死に重い責任を負う当事者の一人である。」(p139)
立ち位置については、1971年の早大入学後に「部落解放同盟神奈川県連合会の結成に関わ」った。1973年5月、川口君事件後半年だが、岡山市での部落解放全国集会において、中核派の活動家たちが革マル派に部落解放同盟として抗議・糾弾すべきと要請した際、そこに居た。その際、執行委員は無言を貫いたそうだ。「今日に至るまで部落解放同盟は川口の死を黙殺し続けている。」(p167)とのことだ。但し、川口君の入学を「1972年」とし自分もそうだと記しているが(p174)、これは「1971年」が正しい。この数字は極めて重要なのだが、これを間違えるのはどうかと思うので、他も大丈夫かと心配になる。
今一つの立ち位置は以下のようである。
「革マル派に対抗して早稲田大学全学行動委員会(WAC)が結成され、わたくしもその一員となり、革マル派の暴力から自治会臨時執行部を守る「防衛隊」に配属された。WACには、中核派や解放派の活動家も参加していて、たしか、「防衛隊」の隊長は、第二次早大闘争で革マル派に敗れた解放派の活動家であった。彼らは革マル派の暴力に対する自衛と称して武装した。しかし、わたくしは、それは川口の遺志に反すると主張して武装を拒否した。鉄パイプで武装して襲撃してくる革マル派に素手で対抗する時は、凍りつくような恐怖を覚えたが、非暴力を完徹した。非暴力は無抵抗ということではない。非暴力による抵抗である。」(p176)
この述懐には疑問が残る。この記述によればWACに参加したのは初期であろう。武装を拒否したのはいつなのだろうか。その上で「素手で」対抗したのはいつなのであろうか。WACが鉄パイプ戦に突入したのは1973.5.30からであるが、この信念を持つ藤野君がそこにいるとは思えない。1973.1.8の新年最初の日あたりの非武装時期に襲われた際にそこにいたのか。5月までは執行委員もクラス活動家もWACも皆、素手で対抗していた。1973.4.4、会議中に鉄パイプで襲われたのが最初だが、そこに居たのか。団交予定日の1973.5.7に文学部正門前で100人規模の乱闘戦になった際、革マル派が本部から鉄パイプ部隊を増援で繰り出してきた。そこに居たのか。4月には学外でも襲撃されたことがあるが、そこに居たのか。いずれにしても、襲われてただ逃げただけの話だろう。「非暴力を貫徹して」鉄パイプ部隊に立ち向かったはずはない。この辺り、この小論全体もそうだが、やや文学的にすぎる。せっかくの論考が惜しいものである。
これを書く動機については、人それぞれのものがあるし、藤野君が川口君を部落解放闘争に誘ったのは本当なのだから、それをどう抱えてきたかについては論評の対象とはできない。
2 において、大掛かりなパースペクティブで「戦後民主主義が云々」をまとめているが、夏休みの宿題のレポート程度の価値はあるのだろうが、本質的には無関係なので、論評の対象とはしない。「戦後民主主義」が「革命と暴力」を「生み出した」、と云う日本語も全く意味を成していない。このほか、この小論の全体にかかる倒錯的表現や、因果関係を無媒介に結論づける断定があるが、それらをいちいち指摘するのも生産的ではないので、それについてはここまでにする。藤野君の動機や思想を批判しているのではない。大変な時間をかけてまとめられていることには敬意を表する。しかし私のスコープとはかけ離れているのでこれ以上は踏み込めない。
3 の革マル派・中核派・共産党の、川口君事件にまつわる対応の事実経過をまとめた部分も、知らない人々にとっては少し役に立つとは思う。しかし、「早稲田解放闘争とは、大学における軍事的独裁政権に対するブルジョア民主主義を求める闘いであった。」(中略)「自由を求めて共産主義独裁権力の革マル派と闘ったのである。それが早稲田解放闘争の本質である。」「p173)として、天安門事件、香港暴動、ミャンマーの軍事政権などと重ねているのは、「藤野君、大丈夫か?」と言うしかない。文章表現として隠喩と本筋の区別ができていない。だから平気で因果関係を飛び越える断定が多い。とてものこと、紀要に掲載するような論文ではない。せっかくの資料としての価値が半減している。一度会って話し会ってみたいと思う。(続く)