ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

藤野豊「『革命と暴力』に関する覚書、敬和学園大学研究紀要、2023年第32号、(其の二)

 この論考で重要な事実が挙げられている。前回も書いたように、それは藤野君が1年生の頃からこのクラスで狭山差別裁判反対闘争に学友を誘った事である。それが川口君の死に対する藤野君の悔恨になっている。

 「Jクラスでも、部落解放運動や狭山闘争について学友に訴えるようになり、川口も、それに応えてくれた。クラス内にも、革マル派の暴力支配への反発が強まり、革マル派に反対し、狭山闘争に参加しようという流れが生まれていった。」(p175)

 これが一年生の頃の事。

 「二年生になり、クラスの革マル派自治会委員を圧倒的多数で不信任した。この一件で、自治会から2Jは反革マル派だとみなされてしまった。」(p175)

 この証言は極めて重大である。こんな事をすればクラスが反革マル派とみなされるのは当たり前である。この事は私もここで初めて知った。他の2Jの諸君はこれを教えてくれてない。公表してない。叛早稲田祭を実行した「早大政治思想研究会・有志」が川口君とはそのクラスの友人の下宿で何度か会った事があると云う事実を、その冊子には書いてあったが『情況』誌へ掲載する際に削除した。2Jが革マル派自治会委員を不信任にし反革マル派として1973年5月前後に明白な意思表示をし、2Jやその周辺の政治思想研究会や映画研究会が、その秋に叛早稲田祭を企画実行し、その中心人物が川口君に数回会っていた事実を隠蔽したのは、2Jそのものが革マル派にとって「危険集団」であった事を歴史から削除する意図があったと言う他はない。それは川口君の死後に、中核派ではないとのキャンペーンと同様に、彼がピュアーな一般学生であったとアピールする工作であったのだろう。

 藤野君も他の諸君も証言しているように、川口君は実直に革マル派の暴力支配を批判した。自治会委員を不信任するクラス討論とその決議の際に、くだんの革マル派自治委員はそこにいるわけで、急先鋒は川口君であるのは筒抜けになる。この時から革マル派はじっくりと時間をかけて2Jの諸君の背景組織を探索し始めたのは間違いない。

 先の引用に続けてこうある。

 「さらに、狭山事件の公判がある日、わたくしが呼び掛けて、語学の授業で集まった教室から2Jの学友たちが大挙して、部落解放同盟主催の狭山集会が開かれている日比谷小公園に向かっていった。もちろん、そのなかには川口もいた。革マル派は、わたくしたちが日比谷に向かうのを阻止しようとしたが、わたくしたちは革マル派の妨害を突破して文学部のスロープを駆け降りて日比谷に向かった。こうした行動により、2Jは、革マル派に敵対するクラスとして、ますます革マル派から狙われるようになった。川口は、こうして狭山闘争に参加するなかで、狭山闘争を重要な闘争課題としていた中核派に接近し、一時、その活動に参加するようになった。」(p175)

 革マル派はスロープ上でピケを張り、2Jの「大挙して」日比谷へ向かう行動を「阻止」しようとし、2Jのクラスメートはそれを「突破」している。これはもはや、集団と集団の衝突の域に達している。当時は、その4月から11月までの期間に、革マル派早稲田大学において他党派狩りで10件の傷害事件を起こし約30人の学生が負傷したと大学の記録にある。その最中、このクラスは集団で実力行使をし武力衝突的対応をしたのである。

 1970年以降の内ゲバ死の前史を記せば、1970年8月法政大学(革マル一名死亡)、1971年6月琉球大学革マル一名死亡)、1971年10月横浜国立大学革マル派一名死亡)、1971年12月関西大学中核派二名死亡)、1972年4月大阪城公園革マル派一名死亡)と連鎖しており、この1972年4月頃の段階で、2Jは公然とクラスで革マル派自治委員を不信任決議し、且つ集団で実力行使を行なっている。革マル派が報復の準備に入ったのは想像に難くない。

 前回、私はこのクラスが日比谷公園へ出向くのに革マル派を突破したのは1年生の頃だろうと、情報がないままに書いたが、それは2年生になってからだった。とにかく、早大解放闘争に川口君の死後に突入したが、その感覚からすると、この事態はすでに部隊と部隊の「戦闘状態」に入っていると言っても過言ではない。

 私は2Jクラスを非難しているのではない。革マル派にとってここまで煮詰まっていたのがわかったのである。ちょうど同じ時期の事として、早大中核派のキャップ井島真一氏は以下のように言っている。

 「川口君とはじめて会ったのは72年4月28日です。・・接触を持っていた三ヶ月間に川口君は沖縄や安保の集会にも来ていました。・・毎週5・六人で機関誌を読む会議を行なっていましたが、そこに彼が来ていたのも確かです。・・川口君が一番ストレートに物事を考えていました。次に早稲田支部の中心になってもらいたいとぼくは期待していました。」(映画『ゲバルトの杜』プレスパンフ第二版、p45)

 革マル派は或る日突然に「今日はあいつを査問しよう」と決めたのではない。この5月頃から半年程度をかけて内偵を行い、相模原戦車闘争や叛早稲田祭への学生らの参加動向を調査した上で、早稲田祭直後に実行すると時期まで決めた上で、ターゲットを川口君に絞って実行したはずである。早大中核派キャップが証言しているような事実関係を革マル派も把握していただろう。1972年の夏頃に川口君が中核派から離脱したのが事実だとしてそれを後から強調しても、革マル派に伝わったであろうこの活動歴は消えないし、革マル派自治委員を2Jクラスで不信任決議した際に、川口君がストレートに面罵したであろう事実も消えない。スロープ上で2Jクラスが大挙して革マル派ピケを突破した際の川口君の存在も消えない。

  中核派だった水谷保孝氏(全学連書記長、『前進』編集長、1979年革共同政治局員)が、『人民新聞』において、川口君拉致リンチは革マル派の中枢において決定され実行責任者も指名されていた、とそれらの氏名まであげて情報開示されたのも、上記の情報と符合すると思われる。(続く)