ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

藤野豊「『革命と暴力』に関する覚書、敬和学園大学研究紀要、2023年第32号、(其の三)

 藤野君の文章の中では、「非暴力は無抵抗ではない。非暴力による抵抗である。」「わたくしは、ますます非暴力の意志を強くした。」(p176)と、自己の立場は非暴力であると強調している。そうした場合、政治党派が自己の「正義を振りかざして暴力を肯定する」、という批判的言辞がつきものなのだが、藤野君の場合、一言もそれはない。一方、以下のように断定している。

 「『リンチのむごさと死体の処理の非情さの類似』は、明らかに「川口虐殺が海老原逆虐殺に対する革マル派の『復讐』そのものであった事を示している。川口の死は予期されていたのである。」(p158)「革マル派の行為は最初から殺害を目的としたものであり、『未熟』な『はみ出した行為』の結果ではない。革マル派は、組織的に川口を殺害したのであるにもかかわらず、それを一部の『未熟』な分子の行き過ぎだとして、虐殺に直接、手を下した者たちに責任を転嫁した。」(p160)

 正義ではなく復讐であるとしているのだ。藤野君は分かっていて書いているのかどうか、そこは不明だが、これは公式の中核派の立場である。どう読んでも、藤野君は川口君の死は内ゲバ死であったと断定している。映画においても彼はこれをはっきりと主張して、他の2Jの諸君他の「川口君は中核ではなかった」「内ゲバ死ではなかった」という主張と真反対である。

 藤野君のこの長い論稿の中で「内ゲバ」と云う単語が出てくるのは以下しかない。報道でそう書かれた場合(p138)、他の主体が書いた文章の中(p152、p168、p170)、梅本克己と高橋和巳内ゲバ批判を書いた文章の中(pp154~155)、革マル派の馬場全学連委員長の発言の中(p158)、川口事件後に「内ゲバ」が激化したという説明文の中(p167)。何度も調べたがこれだけである。

 すなわち、藤野君自身は川口君事件が「内ゲバではなかった」とはどこにも書いてない。それどころか、中核派の認識と同じ「組織的な殺害」であると断定している。立ち位置ははっきりと中核派であって、それゆえに「党派の正義を振りかざした暴力」という他者からの目線による暴力批判の言葉がないのだ。自分は武装はしないと言ってるだけである。

 従って、藤野君は自分は武装は選択しないが、かかる武装を「いわゆる暴力」だと批判して「暴力ハンターイ」とは言ってない。武装するか武装しないか、そのいずれもが等価であって闘うスタンスにあり、その選択は主体によるという、その選択自体が自由の存在証明である場所に、藤野君も立っている。ここは分かる。私の場合、そこで武装を選んだだけの違いだ。だから藤野君は、樋田君などの暴力ハンターイなどと云う構造的支配の側に立つプロパガンディストではなく、れっきとしたあらゆる差別反対闘争の闘志である。彼の夥しい著作群がそれを証明している。

 

 藤野君とその他の2Jクラスの諸君との間に微妙な距離があるのは、私も昔から知っている。と言うか、10年ほどかけて一文アーカイブを2J中心に作って来たが、私は藤野君とは面識がない。数年前だが、皆で一緒に川口君のお墓参りに行った際、伊東駅前の喫茶店で藤野君の昔の文章がコピーで配られ、私は「藤野って誰?」と問うても誰も黙ったままで教えてくれなかった。1972年から73年の当時はどこかで会ってるはずだが存在感がない。WACで活動し図書館にまで突入した亀田博君も面識がないと私にメールで言って来た。藤野君は2Jクラスの「川口は中核ではない」と云う公式見解に真っ向から反対する言説を書いている。どこをどう読んでも「内ゲバでなかった」と云う言葉はないし、代わりにリンチという言葉が頻出し「復讐」であったとある。

 彼にとっての真実というか事情というか、それが理由だろう。つまり、自分が川口君を狭山闘争に誘った、そして川口君が中核派で一時的であれ活動した、それが虐殺を招いた、従って自分は「川口の死に重い責任を負う当事者の一人である。」(p139)と云うナラティブ(物語)。その為には、川口君は中核派であり彼の死は内ゲバ死でなくてはならないのであろう。

 

 この長い論稿の最後の言葉は以下である。

 「非暴力とペンの力で人生を賭けて差別と闘う事、それがわたくしの川口へのせめてもの償いである。」(p176)

 藤野君は近現代史の歴史家であるが、現在の自己から過去を操作していないだろうか。今の立場から過去を再度まとめすぎて(リビジョン)はいないだろうか。歴史家に対して歴史修正主義という批判は最もきついだろうが、こと川口君事件に関しては私にはそう思えて仕方がない。私の誤解で、言いすぎたならば謝る。いつでも藤野君の反論を歓迎する。(完)