ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

立花隆『中核VS革マル』(1975年11月、講談社。1983年1月、同文庫本)、其の一

 この本は文庫本が2021年9月段階で第35刷と長期にわたるロングセラーである。今はもっと増刷されているかも知れない。つまり「内ゲバ」に関する基本文献であり、且つその事象を今日においても規定しているオーソリティを維持している。そうでありながら、この著作は極めて限定的な対象しか扱っていない。第一に、最初の雑誌原稿が1974年11月号『現代』からで、この著作の最後の脱稿が1975年7月、「あとがき」が1975年10月である時間的限定。第二に、取材対象が主として中核派革マル派だけであり、その内部抗争と分裂から記述が始まり、その他の党派間の「内ゲバ」やそれぞれの党派内の「内ゲバ」は描かれていない。つまり、戦中期の日本共産党内の党内闘争による死亡事件や、その後1975年以降に分裂して行った解放派中核派内のリンチやテロ事件は扱われていない。

 更に重要な限界は、革共同の分裂や抗争を描くのに、情報源としてその機関紙しか利用していない事である。そして、学生運動はその自治会争奪戦でもあったのだが、「一般学生」やノンセクト学生の主体的な声がどこにもない。究極的にはどの党派がそれら学生大衆や労働者大衆をどれだけ動員できるかに各種闘争の成否はかかっていたにもかかわらず、彼らが運動の主人公である視点はどこにもない。単なる「動員対象」としての客体である。

 すなわち、立花隆の立ち位置は、革共同政治局レベルでの情報の集約と分析であり、そこから「内ゲバ」あるいは「党派戦争」を整理して読者に見せている。

 これによって「内ゲバ」なる事象の神話化をこの著作は深化させた。つまり、同根の政治党派内部のイデオロギー的骨肉の争いで「正義の名における殺人」と云う宗派闘争である事、宗派の内部抗争であるから彼ら自身の精神構造の問題である事、周辺の学生・家族・社会とは無縁の自業自得の出来事である事、などがその神話化であろう。その周辺の人々がどれだけ憂い傷つき、社会がどれだけ損失を被り、この「内ゲバ」を何とかしてやめさせようとしていたか、などは視野の外にある。公安警察がこれを利用してむしろ煽っていた事への批判的視点も責任追及もない。高度成長期の浅薄で興味本位の出版ジャーナリズムの典型的遺産である。

 この著作の「第五章 ついに全面戦争へ」の終わりの節で「川口虐殺事件と早大闘争」が描かれている。そこにおいて、上述の限界や神話化がものの見事にその本質を晒しているので、以下において講評したい。