ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

36年ぶり、かつ6時間45分。川崎恭治君と話せた。

 最初に会ったのは1979年頃、最後に会ったのは、川崎君が30歳、私が39歳の頃で、1988年あたりであったようだ。それも二人であれこれ計算しての事で、詳らかでもない。

 だが、この日曜日に会ってから別れるまで、6時間45分、ほとんどのべつ語り合っていた。年齢差とそれだけの時間の後に会って、瞬間、時を超えてしまった。何だろう、二人は昔と同じようにそうやって向き合っていた。お互い、見た目がやや変わっただけで、昨日会っていたかのごとく、であった。変わっていない部分が、堰を切ったかのようにして、内側からお互いにほとばしり出る。

 人が体の中に蓄積してしまった老化という年輪と、時を超えてつながっている精神・心というフレッシュな共感は、どう見ても別のものである。人は精神でつながっている。

 

 ともあれ、大隈講堂前で会ったのだ。それからキャンパスを散策しながら、まるで戦場ガイドのように、ここで襲われたとか、ここでホッとした、などお互いに情報交換をした。このすり合わせは初めてだったが、重要な意味を持っている。歴史を振り返り、語り残すとすれば、この既視感の共有は大切な入口なのだ。敗北の屈辱と心の痛みであったとしてもだ。

 

 たくさん語り合ったのだが、うまく整頓なんてできはしない。そういうレポートを期待していた向きには申し訳ないのだが、何かがそこから発酵しつつある。まとまるとしても、まだ先のことになろう。

 

 一致していたのは、早稲田大学でのそれぞれの体験が、その後の人生の全ての基本になっている、ということだった。お互い、革マル派に叩き出されたのは一致している。だが、屈していない。屈しなかった心組みでその後の人生をそのまま愚直に生きて来た。

 例えば、川崎君はその後、20年に及ぶ解雇撤回闘争を持続したのだ。私も労働運動時代の演説で、常にアジアの労働者にも連帯し共闘すべきだと言っていたのだが、実に、私の人生はそのようになって、偶然ながら、その後今日まで40年もネパールでその貧困と闘うことになった。その民主化闘争と内戦と王制打倒の時代を私は現地で生きて来た。

 

 前書きはこのくらいにして、大事なことを記そう。

 

 1978年頃だから、川口君事件から6年。川崎君らは自主的にサークルを立ち上げ、何も知らずに活動していたら、革マル派に睨まれた。まず、大隈講堂裏の空いた部室を勝手に使っていたら、革マル派の文連にバレて呼び出され、恫喝されて追い出された。そこはなんと、鴻上演出家らの劇団も使っていた空間だから、妙にご縁がある。

 川崎君が書いたものにあるように、いよいよ睨まれて、ある日、ゼミが終わった時に5・6人の革マル派が教室に入って来て恫喝を始めた。廊下ではない。ゼミ生のみんなも室内で自然にそれを取り囲む格好になった。7・8人は居たようだ。皆が川崎君を擁護し、中の一人が「川口君事件をまた起こすんですか」と叫んだ。それが誰であったかは、川崎君の背後に居たので不明だそうだ。その一言で、革マル派の阿波崎とおぼしき年長のリーダーは断念し、全員が引き上げざるを得なかった。

 情景が目に浮かぶ。

 その後、川崎君は助けてくれたゼミ仲間の多くが民青派であった事を知る。キャンパスで会って「その後、大丈夫か」と声をかけられ、何かと相談に乗ってくれたと言う。中退まで行ったのだが、授業に出られないと裁判を起こしてはどうか、など親身に言ってくれたそうだ。飲み仲間にもなっていた。

 ここで重要なのは、ゼミ仲間にそれだけの声をあげる人がいて、その複数の学生は民青だったということだ。代島監督が述懐しているように、当時は民青のタテカンには「川口君事件」が書かれていた。まだ余韻が残っていた。

 

  川崎君は1977年4月、社会科学部入学。1978年1月に樋田君は大学院在籍時に朝日新聞に入社している。10ヶ月ほどダブっている。川崎君らが自主的サークルを立ち上げようとしていたころに、樋田君は早稲田を去っている。そして同じ頃、代島監督と鴻上演出家も早稲田に居た。

 私は1974年12月に早稲田を中退し、1978年頃には勤務先で結成した労働組合活動への弾圧で解雇され争議団生活をしていた。だから、解雇撤回闘争をやっていた頃に、私は川崎君と初めてあったのだ。私はあまり覚えていなかったのだが、そのあとの彼の労働争議の現場にはよく顔を出していたらしい。人生が重なり始めていた。

 

 1970年代から、革マル派が早稲田を追われる2000年前後までの、約30年間、早稲田で何があったのか。代島氏や鴻上氏、そして川崎君らが1970年代後半にいて、花咲政之輔氏や白井聡氏らが1990年代半ばから後半にいた。その間、学生運動圧殺の経緯はどうだったのか。それはどういう時代背景のもとに大学管理が徹底されていったのか。またどのようにしてそれが国立大学法人化も含めて全国化されたのか。その大きな流れは、いわゆる内ゲバの連鎖の時代を含めてだが、1972年11月の川口君事件から始まったのではないのか。二度とそのような事が起きないようにと、今、全国の大学は政治的に「無菌化」されている。

 

 そう考えると、私たちの体験は、単に内ゲバ時代にだけでなく、この学生自治会なき暗黒の時代につながっている。この30年間の流れを明らかにできないものだろうか。代島監督の視野にはこれは入ってない。だからあれだけ批判を浴びているのだ。だとすれば、この30年間を読み解き書きおく責任は、代島批判した側に戻って来よう。川崎君にもそう言う話はした。

 

 何十年たっていても、人間の本質はさほど変わらないようだ。会った瞬間から、昔と同じ心地よさを川崎君から受けた。友情は歳を取らないものだ。