ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

樋田毅『旧統一教会 大江益夫・元広報部長懺悔録』(光文社新書、2024年8月30日)

 本来、川口大三郎君の死と旧統一教会は重なることではない。しかし統一教会は執拗にそれを脚色した。

 それは、彼の中国語クラス2J周辺に、彼を狭山裁判闘争に誘った中核派に近い者(本人は『ゲバルトの杜』や複数の論文の中で川口君の死について中核派の見解と完全に一致する歴史認識を執拗に主張している)や、早稲田大学中核派と繋がりを持った者(『彼は早稲田で死んだ』の中で本人が証言)や、革マル派に楯突いて映画『PFLP』を上映しようとして革マル派に弾圧された映研の者(映研後輩の亀田博君が論文で証言)や、その映画を上映した叛早稲田祭を実行した、関西ノンセクトとも繋がっていた本格的なノンセクトグループで川口君に面識のあった者(雑誌『情況』、その原本に記述)がいたが、それらと川口君の死とは無縁であるとの脚色と同一である。

 後者の事情については、2Jの諸君が一貫して関係ないと脚色してきた。つまり、川口君は中核派の「同盟員」ではないから、その「スパイ容疑」は不当であるとした2Jの公式見解は、当初から強く主張されてきた。それは2Jの反革マル・クラスであるとの自己認識(川口君事件前、彼らはスロープ上で10人を超える集団で革マル派のピケを突破して狭山裁判闘争に参加している。革マル派クラス委員の不信任決議も上げた。)がもたらした恐怖が成さしめた脚色であろう。それによって、早大全学の学生は怒りを爆発させた。

 しかし、これだけの事実関係があって、その最も典型的な人望のある「一般学生」として革マル派に選択的に狙われたのだ、と云う認識も2Jは示している(一文アーカイブ参照)。

 革マル派の集会の時刻が彼の捕縛の後だから、集会スパイ容疑は濡れ衣であると云う2Jの公式見解は牽強付会であって、革マル派は上記の全ての行動を把握した上で、中央組織の決定(水谷保孝氏証言)として川口君から周辺情報を拷問で聞き出そうとしたと思われる。それは佐竹の樋田君への告白メモをもとにしたとされているドラマの中で、革マル派が「叛早稲田祭」について言及している事からも明らかである。これだけの重要な事を、当時の事を何も知らないあれだけ政治音痴の鴻上演出家が捏造したとは到底思えない。佐竹が喋ったのである。

 問題は、革マル派の相模原戦車闘争集会を川口君がスパイしたかどうかではない。活動歴から見て、川口君が多くの背景情報に通じていると判断されたからである。早稲田に数えるほどしかいない中核派は封じ込められていて、数百人の武装部隊まで組織して革マル派武力行使した(1971年)民青派とは比べものにならない。その中核派が一般学生に勢力拡大を図り、その最先端にいると(早稲田中核派キャップは、次の早稲田責任者にと当時考えたと言っている)革マル派が判断したのであろう。狙われた理由はそこにあると、私は何度も書いてきた。2Jも川口君を通報した革マル派の「スパイ」について執拗に言及しているが、それは川口君のその立ち位置を認識しているからに他ならない。

 

 旧統一教会早大原理研究会は、彼の死を「宗教的な受難と捉えていた。(p64)」。「彼の死を、イエス様の十字架の死として証し・・・」(p64)とある。川口君は一時、統一教会の「早稲田学生新聞会」に所属していたが、1971年度内に離脱した。中核派を川口君が1972年の夏頃に離脱していたのと同様である。

 中核派系の組織から離脱し、統一教会系の組織からも川口君は離脱していた。にも関わらず、その両者は我が組織の者であると、川口君の死後に政治利用に走った。ここに川口君と早稲田解放闘争の根源的な不幸が始まった。そこに、統一教会なりの物語、中核派なりの物語、当事者クラス2Jなりの物語、樋田君なりの非暴力物語が錯綜し、早大全学の学生の漠たる怒りに火をつけた。

 しかしながら、早稲田解放闘争に立ち上がった多くの者は、本気で自治会再建を願ったのであり、こうした種々の物語とは別に、将来展望として自由な早稲田大学を語り、希求したのも事実である。こうした種々の物語の主たちは、自治会再建に最後には淡白であったのは、歴史的経緯がおのづから示している。2J行動委員会にしても、一文行動委員会にしても、全学行動委員会(WAC )にしても、彼らは一度も自治会再建運動を本気で提唱していない。全ての残された資料がそれを語っている。

 

 今回のこの著作は、『記者襲撃』『彼は早稲田で死んだ』に続いた三部作と思う。『彼は早稲田で死んだ』の第五章で統一教会関連の情報は全て削除されていたが、それが今回の「第三章 早大原理研究会」「第四章 川口大三郎君事件」で補填されている。樋田君が二人の青年の死が人生において重なっているとした自叙伝は、ここにおいて完結したと言えよう。

 

 歴史とは何か。当事者の物語とは何か。少なくとも、ここには中核派が川口君を抱え込んだ物語、それを否定した2Jの物語、イエスの死に重ねた統一教会の物語、そして樋田君の暴力反対でまとめた早稲田解放闘争の物語が錯綜している。それらに共通しているのは、歴史の超越的な脱構築である。それらは自己の精神的安堵の為に史実から超越的に構築されている事において、共通している。

 史実とは何か。それはそれを真摯に引き継ぐものが決める事であろう。構成主義はそれぞれの時代や主体が持つ権利でもある事は認めよう。私も私なりに、早稲田解放闘争を上記の人々とは異なる位置と視点から『X団顛末記』によって示した。少なくとも私は、立ち位置はあるとしても、自分勝手な超越性に依拠せず、記録という事実関係に忠実に述べたつもりである。しかし、それは上記の人々のとは異なって、多くの当事者にとって痛みを伴う事であるのは、私自身がよく分かっている。あの事件で、誰も幸福ではなかったのだ。

 私は今、全ての当時者、全ての理解者、全ての引き継ぐ者たちに言いたいのだ。自分の痛み抜きに他者の物語を非難してはならない。様々な物語があるとしても、それを受け入れて、許して行くしか、一人の若者の死を引き継ぐ術はあるまい。

 

 追記だが、信仰の根本に賛同するわけではないが、力量として大江益夫氏は大変怜悧で論理的で優れた指導者であると思った。それが、統一教会の超越的な反社会的な飛躍を一歩手前で批判できている力になっている。革マル派の暴力に反対して彼らは断食までやっている。そこは、一面において樋田君の暴力反対論と引き合うものがあるのではないか。少なくとも自衛武装の私やX団や二連協と樋田君の隔たりよりは、遥かに彼らは近い。

 旧統一教会が今後どうなるのか。反共という政治主義を抜きにした信教の自由の範囲内で、反社会的な活動や過剰な政治介入をやめて、普通の信仰生活を送ることを私は否定しない。大江益夫氏がどこまでそれを貫けるか、あるいは再び敗北・敗死するのか、日本の保守政治情況とも重なる事でもあるし、注目して行きたい。