ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

樋田毅『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、単行本・2019年、文庫本・2024年)

この本についての批評は語り尽くした感がある。そこで、いくつかのご質問が来たりしたので、この本で書かれていない事、付加的に書かれている事について、簡単に記しておきたい。
 
 まず、書かれていないことで大きいのは、何と言っても統一教会勝共連合についての事柄である。「第五章ー赤報隊事件」がそのままではこの本から浮いていて、早大解放闘争とは縁のない章に見える。二冊で対になっている自叙伝である別著『記者襲撃』では詳細に論じられているわけだが、その話題を挿入しておいて、そこの統一教会に関する「第三部」の全てが記述されていない。配慮して書かなかったのは確かだ。
 
 この本でそれに触れているのは、川口君が統一教会の早稲田学生新聞会に籍を一時おいていた(p77)件と、そのサークルが募金活動をしたこと、それに川口君の母親が総長からの見舞金600万円の全てを寄付した事(p192)だけである。しかもそれによってできたセミナーハウスを巡って、総長と統一教会が裁判で争った事は書かれていない。「原理研究会」という単語が出てくるのは、その早稲田学生新聞会を説明する「当時は原理研究会に近い存在とされていた」という一箇所だけである。統一教会勝共連合という単語は一度も出てこない。
 
 また最初のリコール学生大会において、勝共連合が「第一文学部非暴力推進協議会」なる偽名で対案を出し紛糾したことは書かれていない。
 次に書かれていない事だが、それはとにかく意見の異なった側の情報を極端に制限している事だ。例えば、「第三章 決起」の最初にあるのは私のクラス2Tが11月11日土曜日の早朝に、革マル派批判の立て看を文学部中庭に出した事だ。これは全学で最初のものだった。そこにその概要が三行で引用されているが、あれは彼に求められて私が大体こんな内容だったとメールで送った文章である。新聞記者ならそれが「野崎泰志さんによれば」と書くのが鉄則であろうに書いてない。
 もう一つ、僻むわけではないが私の名前が出てこない重要な箇所がある。それはあれだけみんなが大事にした「九原則」で、それは全文引用されてはいても、執筆して提案したのが私だとはどこにも書いてない。「クラス討論連絡会議の頃から積み重ねてきた」(p130)とあるだけである。
 
 私の名前が出てくるのは、自治会役員が決定された時の名簿(p131)の所と、私が「行動委・団交実行委については『自治会無視の暴走』と厳しく批判していた。』(p144)と都合の良い話のところだけである。ほぼ一緒に行動をとり、全ての会議などで議論し、樋田君とはやや重なるが彼よりは多くの学部学生の支持を得ていた私の影は、そのほかにはどこにも描かれていない。執行委員会での激論相手の筆頭は私だったにも関わらず、存在してないかの如くである。
 
 私だったら、意見の違いを示し、相手の根拠も理解し、その上でかかる激論を行なったと記述する。総じて言って、幾度もあったそうした意見の相違や方針選択の重要な局面は何も描かれていない。描かれているのは、それが自治会再建運動全体にとっていかに危険な事であるかすら自覚できずに、深く深く民青系に抱え込まれていった経過だけである。異なる意見は一切受け付けないのが樋田君であった。だからそういう相手の存在すら無視できる。一年生で若かったし、指導者として選んだみんなも若かったのか。早稲田解放闘争としては不幸な事であった。
 
 私は、1973年6月期の最後の武装提案に男女合わせて25名ほどが応じてくれたのは、今でも心から感謝している。同じく大衆組織として二年生連絡協議会も武装を同時期に選択したが、その際、X団の存在を二連協に知らせるか否かと問われ、私は「知らせないでやる」とゲリラ戦の鉄則でやることにした。従って、二連協の諸君にはX団の存在を知らせずに1973.7.13武装中庭集会に臨ませてしまった。心細い思いだったろうと思う。おまけに、やむを得なかったとは言え、階段下で二連協のそばにいて、一列横隊の突撃隊形まで組みはしたが緒戦でX団は撤退し、襲われた菊地原博君や岡本厚君や吉岡由美子さんらの諸君の救出に向かえなかった。今でも心が痛む。申し訳なかった。吉岡由美子さんはその日の事がトラウマになってキャンパスへ行けなくなり、中退したとも聞く。済まなかった。
 
  さて、それから書かれていないのは、執行部ほかで樋田君に批判的だった者のほぼ全てが出てこない。出てくるとしてもイニシャルでわずか三名である。Kさん、Y君、Nさん。Kさんとは臨時執行部書記長を務め、一文行動委員会の指導的立場にあった金田君、Y君とは一文執行部副委員長の安田君、Nさんとは川口君の2Jクラスを引っ張り、執行委員でもあり行動委員会の牽引者でもあった永嶋君。この三人はさすがに無視できずイニシャルで書いているが、そのほかに主だった活動家だけでも何十人もいるし、解放派や叛旗やWACの仲間でも重鎮はいくらでもいるが一切登場させていない。(WACの大橋正明氏、政経学部執行委員の内田和夫氏は文庫版の後書きで触れられている。)後で述べるが、これに比べて民青派の人間は私などが全く知らない他学部の者や、さほど重要人物ではない者など多数が実名で出てくる。
 
 状況的に重要な事で書かれていないのは、1973.5.8の総長拉致団交の後の、文学部内で激論をかわし、最後に総長団交へ賛成した経緯の重要な論議(p158)。そしてその総長団交が拒否された5月17日の当日に、本部キャンパスで大きな抗議行動があり、300人の一文デモ隊が革マル派の鉄パイプ部隊に襲撃され、その一文デモ隊がめげずに再結集し、機動隊に三度までも四谷まで連行された事である。後者については樋田君は入院していてその場にはいないから無理もないと言えばそれまでだが、この日は大きな分水嶺だった。その重要さを認識していたら何か書くだろう。
 
 あと、明らかに状況認識が間違っているのは、早稲田キャンパスでの革マル派の「最大の敵が中核派」(p30)としている事だろう。これはあからさますぎて呆れるくらいで、全国的規模での党派闘争ならいざ知らず、早稲田大学での革マル派の最大の敵は民青派であった。中核派はごく少数が非公然で存在していたに過ぎない。現に前年の1971年の前期、本部キャンパスを舞台にして民青派と革マル派双方それぞれ200人規模の武力衝突を起こしていた。沖縄で革マル派が民青派によって一人殺害された直後の衝突であった。革マル派の最大の敵であった民青派を樋田君はカモフラージュしている。
 
 以下、あまり建設的な記述ではないが、樋田君と民青派がいかに密接であったかは、私たち当事者から見て目を覆うばかりである事を書いておかねばならない。
 
 まず、事件前の情報。
 以下は、私たちノンポリは知らない事だらけで、民青派からの情報と言わざるを得ない。
 
 革マル派の一文自治会学生大会での議案書を「手本にして」、全国の革マル派系の自治会議案書が「作成されていたという。」(p24) また大岩が「入学以前から名の知られた革マル派の活動家だという噂を耳にしたことがあった。」(p27) こんな伝聞や噂はノンポリであった私などは全く縁もゆかりもない情報である。
 
 そして民青系へのテロであるが、共産党員の助教授(p31)、1972年6月3日、民青へのリンチ(pp32~33)、その被害者が「一文民主化クラス・サークル協議会」のメンバーだった事(p32)。6月、秋定啓子さんへ本部でリンチ(p33)など。これらの結果、この時期に「30人が登校できず」(p33)とあるが、誰がこういう統計数字を持っていたのか。私のクラスにも民青系の男子学生がいたが、こういう事件事実は私たちは全く知らなかったし、そういう人の名前も知らない。だいたい、その「一文民主化クラス・サークル協議会」なるものも私はこの本で初めて知った。最初のリコール学生大会の前夜、泊まり込みで会議があった。その時、民青系は役員候補辞退へと追い込まれるが、その時は私もそこにいた。樋田君は「民青系の一文クラス・サークル連絡協議会のリーダー格だったOさんが戸惑っているのが伝わって来た。」(p105)としているが、私はそういう事情も人物も全く知らない。この本で初めて知った。
 
 少し前の1970年10月の山村政明氏の焼身自殺事件。事件の後、「数十人の学生たちも一斉に授業に出て、クラス討論を定期的にし、革マル派を追求するデモも組織された。」(p37) 民青系の我が一文自治会執行委員・岩間輝生氏もかつてはそこに参加した。(p89) 山村氏が民青系であって民青が抗議行動を起こしたのは私は知っていたが、樋田君のようにこれほど詳しくは知らない。山村氏の自死は非業な事で私もよく知っていた。しかし民青系であった事によって、早大生多数の運動にはならなかったようだ。
 
 抗議行動開始後、11月11日の午前10時頃、本部キャンパスでは民青系の法学部自治会が真っ先に動いた。ここで副委員長の浅野文夫氏が活躍する(pp69~72)。「糾弾集会に民青というレッテルが貼られるのを避けるため、私たちは表に立たず、支える側に回ったんです。」と浅野氏は言う(p71)。これでは革マル派が言っていた民青による第二自治会策動と云う批判は当たっている(p96)。樋田君が「他学部の動きについてはあまり触れていない。」(p291)と「あとがき」で言う割には、法学部自治会については詳細である。私は浅野なる人物も知らなければ、こういう迅速な動きがあったのも知らなかった。法学部自治会以外の他学部については、この本では触れられていない。
 
  樋田君のクラスは11月11日土曜日の午後から文学部正門のスロープ下で最初の集会をやった。その時は、チラシ(なぜかビラとは書かない)もトラメガの用意もなかった。次の13日月曜日の正午から同所で文学部集会をやった。その時は、「チラシの作成には夏に同人誌を出したときに用意したガリ版印刷機が役立った。」(p83)と丁寧な叙述がある。しかし、「生まれて初めて、立て看板を書き、デモ行進のためのプラカードを作り、トランジスター・メガホンを手に喋る」(p88)のであるが、そのトラメガをどうやって調達したかは記述されていない。おそらく、民青派が用意したのであろう。
 
 あとは個人的交友になるが、ちゃんと氏名が書かれているのは全員、民青派である。
 
 小此鬼則子氏(p307)、その夫・林太郎氏(「一文で民青系指導者の一人だった。」)林太郎氏は『早稲田の自治と民主主義』と言う有名な運動総括パンプの序文を執筆している(p307)。 林太郎氏については私は面識がない。
 
  2Jクラスの田中ひろし氏(「民青に所属」p120)。2Jに民青派がいたのは私はこれで初めて知ったし、面識もない。
 
 法学部自治会の委員長(1970年、1971年)柳ヶ瀬直人氏はたびたび登場する。(p123, p124, p308) 「うちの組織で調べたが、付近に革マル派の部隊はもういない。」(p124)と4号館で1973.1.18に私たちが襲われた際に組織を動かした。4号館学生ラウンジは一文の私たちの拠点になったのだが、「柳ヶ瀬さんが普段から事務所代わりにに使っている場所」だったらしい。本部キャンパスでの一文の拠点利用は、初めから樋田君を通じて民青派のご指導の下にあったようだ。今は、村上春樹記念館になっていて、あの半地下のラウンジは喫茶室になっている。行くとさまざまな情景を思い出す。
 
  木下泰之氏(p305)、1973年入学、元共産党構造改革派の人の手伝いをした。私は面識もない。
 
 あとは、岩間輝生氏、山田誠氏とは荻窪の学生相手のスナックでよく飲んだとある。二人とも一文の民青派の重鎮である。 
 
 単行本と文庫本のあとがきに、合わせて15名の仲間や取材相手が出てくる。そのうち6名が民青系と明記されている。8名は文学部のクラス仲間や他学部の著名人で、まあ取り上げられるのは不思議ではない人物だ。それを除くと7名だが、1名が社青同協会派(p304)で、6名が民青系と樋田君自身が断っているのだ。
 
 最初に書いたが、一文執行委員会で日常的に顔を合わせ、激論を交わしながら危機を乗り切ったりした仲間、正規に選出された15名の執行委員の中では、民青派の岩間氏と山田氏以外は誰もこの50人ほどの取材対象の中に入れられていない。しつこいようだが、副委員長の私ですら、である。この本の執筆途中に私から申し出て菊地原君と樋田君と三人で会った事があり、団交実行委員会などの資料からその独善性が見える事をいくつか教えた。それらは本の中に全部採用されている(pp134~135)。それは一文アーカイブを徹底的に読み込まないと判明しない事柄である。それ以外のそうした事柄は記載されていないので、彼が一文アーカイブを徹底的に読み込んだとは思えない。私のその後の人生も知っているはずだが、あとがきでは他学部の者や重要人物ではない身近な者を列挙してはいても、私を筆頭とする執行部の中の反樋田派・中間派は誰も取材せずそこに挙げていない。
 
 私は革マル派が主張した民青系の第二自治会策動だと云うのは、樋田君自身がこうやって証明していると今更ながら思う。当時、早稲田大学において民青系に接近することは、とりもなおさず極めて危険で、暴力的弾圧の対象になった。暴力反対と言いながら、樋田君は知ってか知らずか、自らそういう危険ゾーンへ、学部の仲間全体を引っ張り込んだと言っていいだろう。そしてそれに対して自治会再建のミッションと自らの人権を守るためにやむを得ず対抗武装した者たちを、後ろから「暴力反対」と言って非難したのである。
 
 多分、こうまで言われても、彼は自己主張をやめず、異なる見解をひたすら弾き、暴力反対なる原理主義だけを今でも信奉していると思う。それは、私や他の執行委員が会議での議論で幾度も幾度も味わった徒労、何を言っても理解できない、何を言っても自己の信念からだけ反応する、あの優れて革マル派的な、原理研究会的な体質を意味していると私は思っている。そうした、他者を理解し得ない本質が、この本に見事なほどに現れていると、当事者の一人としては、今でも暗澹たる思いがするのである。 以上
 
付記
 いつ頃だったかすぐには思い出せない。三田の芝浦工大の建物で執行委員会をやった時だ。私たちは会議ですら学内で行えなくなり、青山学院、東大、学芸大学などなどを転々としながら執行委員会を開いていた。喫茶店などでは襲われるので、そうした場所で周囲に防衛隊を置いて会議を行っていた。議題も思い出せない。ただ全学連携に関する非常に重要な案件の審議が続いていたと思うのだが、樋田君が独断で決定しすでに先方に伝えたと発言した。「委員長として僕が決めた」と言った。これは明白な「九原則違反」で、私は言葉を失った。黙ったまま、テーブルの上のアルミ製の灰皿をやおら手に取って、それをひっくり返して丁寧に灰を落とし、それを樋田君めがけて投げつけた。全員が凍りついた。しばらくして皆が口々に樋田君を非難し始めた。私の怒りは深く、薄暗い部屋でのこの事は昨日の事のように覚えている。