照山もみじ氏が、『キャンパス新聞』の資料を見て、平田君や永嶋君らの対談に、解放闘争がとても明るい感じで語られているのに感心していた。私はそれも読んだからいつの時期の『キャンパス新聞』かも、紙面の段組みまでよく知っている。その通り、リコール学生大会は皆、数千人の学生が実力で数百人の革マル派部隊の突入を弾き返しながら逐次防衛し勝ち取ったのだ。革マル派の個別テロが本格的に始まる前、11月から3月までは、非常に晴れ晴れとした高揚感に満ちた闘いの日々だった。中島梓ばかり見るからそれにも気が付かないだけだ。
そしたら、目の前の最前列に、くだんの永嶋君が座っていて、なかなか本題に入らないのにイライラして、永嶋「砲」をぶっ放して吼えた。当然だな、私もそろそろそうなふうに感じていたので。皆さん、驚いていたが、私は永嶋砲には慣れているから驚かない。映画に出演している早稲田関係はその日は永嶋君と私だけだった。亀田君は出演者ではないが、絓秀実氏と花咲政之輔氏との鼎談を『映画芸術』(487号)でやっている重要人物で、本人から私へのメールでは以前から予定の小旅行で残念ながら欠席だった。
出演者の早稲田関係12名で、これに参加しそうなのは、WAC組の大橋正明氏、臼田健一氏、1Jの吉岡由美子氏、2Jの三名だ。2Jは永嶋君代表でいいだろう。吉岡さんは今頃、フィレンツェかベルリンかスペイン当たりで舞踊のワークショップで忙しい。さすればWAC の政経組の首謀者の二人の去就が問われるのだが、果たしてこのシンポジウムの趣旨に賛同するかどうか。私が「X団顛末記」を書いてから、早稲田解放闘争の主体が全学行動委員会であるとの神話が崩れ始めているので、そもそも出る幕ではないかも知れない。映画でも自治会再建運動について、「否定はしてない。(大橋)」とか「あってもいい。(臼田)」などと、恥も外聞もなくほざいている。これで全学行動委員会の内実がよーく分かっただろう。
1973年5月期に、新入生も含めて自治委員選挙を本部キャンパスでいいからやり、学生大会を開催して新規約を成立させていれば、一文新自治会は教授会が承認するはずだった。それをWAC が4月の入学式粉砕と5月の総長拉致団交でグジャグジャにし、挙句は6月に大戦争を演じて、何も言わずにすっと消えた。その後の暴圧を全て引き受けて、二連協とX団は7月期に二度までも文学部中庭武装集会を決行し自治会運動を守ろうとしたが、完膚なきまでに革マル派の鉄パイプ大部隊に襲撃されて粉砕された。それでも9月以降もゲリラ的に闘うつもりで、女性部隊も含めて合宿や武闘訓練を続けていた。菅孝行氏と一緒に我が女性部隊も信濃忍拳の稽古に励んだのだ。繰り返しになったが、この二人のWACの指導層には私は半世紀経った今も変わらない歴史的な怒りを持っている。
全学行動委員会があの闘争の主体であるとされて来た神話は報道にも責任がある。例えば、総長拉致団交があった際の報道では、「黒ヘルが主導権」と大々的に書かれた。実は記者の多くは1960年代を経験したか見知っている世代で、その時代のメカニズムしか知らないから、ついつい全共闘運動の報道と同じスタイルで記事を書いている。稀に樋田君に密着取材した毎日新聞の記者なども居たが、よく考えてみれば分かるように民青派の運動を記事にしていたのだ。地道にクラスを組織し規約改正委員会で24回も会合を持ち、自治会再建に本気で取り組んでいた執行委員会の主力の私たちには、表からは見えないものだから誰も取材に来てない。WACは絶対多数のその学生大衆から浮き上がった先走り者であり1973年6月のゲバルトの後に内部分裂し崩壊・消滅・逃亡している。樋田君らの民青派も最後の一文自治会執行部での「一周年集会」をどうするかでは、評決で負け少数派に転じている。だから二つに分裂したその集会で私たちは一文執行委員会を正式にビラで名乗り、教育学部執行委員会、二文臨執有志と共催である。樋田君らは「一文実行委員会」名で政経学部自治会、法学部自治会(民青派)と共催である。二連協とX団を中核とする自治会自衛武装グループは最後まで一文の場合、闘争主体であり続けた。そしてこの二つの一周年集会には行動委員会の名前はどこにもない。
1973年9月期の党派戦争の全面的開始で自治会再建は道が絶たれ、全学でこの運動は収束したが、せめて一周年記念集会はやろうとした。その最後の分裂集会の主催は上記のようにくっきりと各自治会が二つに別れている。その分岐点は自衛武装するかしないかであった。ただし、教育学部と二文は大衆武装にまでは至っていない。大衆武装して実戦まで構えたのは一文だけである。
私はシンポジウムで菅孝行氏が、全共闘のポツダム自治会粉砕で「1960年代半ばで学生自治会は機能してなかった。しかし早稲田解放闘争は自治会再建で闘わざるを得なかった。」と批評された事に納得した。まさにその歴史の逆説、強いられたジレンマを闘ったからである。実際、手探りで一から自治とは何かを模索した。
一文当局が1973年2月の段階で「自治会費の代理徴収の許可」を一文自治会に求めて来た際も、大激論をやった。それは新自治会を事実上認める予定である事でもあり、自治会費代理徴収という中心課題を私たちに投げかけるものでもあった。新自治会は結局、代理徴収を当局に「許可」した。内実については議論の上、後に通知するという条件付きだった。学生自治会の本質的課題にズバッと踏み込んだ瞬間だった。学生大会で議論するには時間が間に合わず、それは議題から外した。私は生協と同じで任意加盟で良いと思っていた。存在理由がなくなれば、なくなっても良いと。ところが、諸党派の諸君が目を釣り上げて、これまでの戦いの成果で「既得権益だ」と逆上するのだった。内心、私は笑っていた。政治党派とはそんなものかとおかしくもあった。
菅孝行さんの批評の通り、既得権益にしがみつくだけで学生自治会は機能してないのがそこに明瞭に表れていた。そんな体質の政治党派の争いが遠因で川口君も死んだのだ。ならばそんな体質は避けるべきだと、自治会費代理徴収は反対だと内心において決意した。そんなものに頼らない自治会を再建してみせると。