ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

水谷保孝「早稲田解放闘争をどう描いたのか:『強者』への無力感や絶望へ誘うプロパガンダ映画」:映画『ゲバルトの杜』本紙5月24日号巻頭対談批評(『週刊読書人』 、2024年6月28日第3545号)

 水谷保孝氏が『情況』、『人民新聞』に続いてこの映画についての三つ目の批評を書かれた。代島治彦監督と森田暁氏の対談へのコメントである。

 まず映画の冒頭のシーンが1969年第二次早大闘争の時のもので1972年11月に始まった私たちの時期のものではない事を指摘している。これは私も違和感を持った。ヘルメットを見れば時代が分かる。写真としては切迫した状況を良く示すインパクトが強いものだ。そして第二次早大闘争の学生会館や大隈講堂の様子も出て来る。確かに早大全共闘が学生会館に立て篭もり、革マル派が大隈講堂に立て篭もって睨み合いをしたので、両者が対立していた「内ゲバ」前史ではある。説明もあるにしても、知らない人には第二次早大闘争と川口君虐殺事件が踵を接して起きたかの印象を与える。実際は3年後である。冒頭から「内ゲバ映画」であることが鮮明に打ち出されていると言っていい。

 次に1973.11.19図書館占拠闘争を全く描いていない事へクレームを付けている。これは全学行動委員会WACの一部が実行したもので、数時間で機動隊に逮捕されたものの、早稲田解放闘争の最後のシーンなので、この行動への賛否は抜きにして短時間でも折り込むべきだったと思う。これをスルーした理由を「その後エスカレートしていく党派間の内ゲバを追った為』と代島監督は対談で説明しているが、やはり「内ゲバ映画」が主眼であった事になる。

 三つ目は、私たちの一文武装遊撃隊「X団」の行動がスルーされていること。これは私自身も4時間に及ぶ取材を受けて全部話してあった。わずかに、私の当時の写真と共に「野崎泰志は武装遊撃隊を組織した。」の数秒のテロップで終わっている。これによって、この一般学生男女による自衛武装が本来は党派や元全共闘世代のWAC批判としての自律的武装であった事の判別が付かなくて、映画の多くの感想ではWACと同じグループと思われている。

 この図書館闘争と「X団」はいずれも暴力反対路線の民青系と樋田毅氏に対する批判的立場にあった側であり、早大解放闘争のそうした多様性を消し去っていると言っていい。その事を「歴史の多様性を捉えるのを代島氏自身が妨げた」と水谷保孝氏は批判している。

 また、「一般学生の闘争はわずか一年で敗れ」、川口大三郎君の死は「無意味な死だ。」としていることにも、水谷保孝氏は「山村(梁)政明氏及び川口君への生きざまへの想像力がゼロである。」と批判している。これは後半の革マル派東大生二名の死亡事件においても「無意味な死」としてつなげられ、映画全編がそうした或る種の「諦念」で貫かれている印象を脱がれない。それがこの映画の「鎮魂」というテーマを全面に押し出す結果にもなった。私は別のところにも書いたが、「鎮魂」はややおこがましい踏み込みだと思っている。

 「一文での自治会再建運動は、武装・非武装を含めて渾然一体となりながら、革マル派の『殺人者の自治会』にとって代わり、人間性を尊重し、大学管理体制から自立した『自治の内実』をめざした。それは未分化ながらも、1871年パリ・コミューンの四原則をも想起させる自治プロレタリア独裁と人間解放の思想を胚胎している、と私は学ばせてもらった。この映画は、新しい試みとしての自治会再建運動の産みの苦しみと可能性を描こうとしていない。」

 これは、水谷保孝氏による過分なる批評であるが、私の「X団顛末記」において示した自治会再建運動の核心を真っ直ぐにこうして読み取っていただけた事は感謝以外にない。決起した全ての学友に伝えていきたいと思う。

 「一身をなげうち革マル派弾劾に決起した早大生たちの自己解放と勇気の物語である樋田著からも、逸脱している。」ともあって、樋田君の著作にも言及がある。この点は、樋田君が生涯の決算のようにして書き上げた渾身の一著であり、たびたび言って来たが、私も心から敬意を払っている。彼がこの一石を投じてなければ、この映画も、こうした議論もなかったはずである。

 水谷保孝氏は最後に、「暴力学生の跋扈がその後の政治的無関心世代を生み出した。より大きな暴力に抵抗しても負けるだけ。無駄なことはやめろ」という「警察・マスコミのデマと同根のプロパガンダである。」と映画を批判している。これは私も同感で既にいくつか書いてきた。これは樋田君の原著にそもそもある「暴力反対論」を、それに批判的であった学生グループをきちんとは描かない事によって、更に増幅させていると思う。両論併記的に描く事はできたはずだ。それで「暴力の克服」が焦点であった事が分かるし、そのために「自衛武装」にまで追い込まれた自治会再建運動の「逆説的な立ち位置」が初めて鮮明になる。

 川口君の死は内ゲバ死ではない。だからこそそこで止められたはずだ。そこから内ゲバ的状況の奈落の底へ落ちぬようにと、その克服が目的であった運動が、逆に自衛して闘わざるを得なくなった。代島監督が「内ゲバ」を描きたかったのであれば、そこがまさに「内ゲバ」的状況の萌芽であり原点でもあったわけで、そこにカメラを向けるべきであった。堰き止めようとした私たちの運動が、問答無用の鉄パイプ大部隊の前に敗北して、ダムが一気に決壊するようにして党派戦争に突入したのである。その分水嶺に立ち尽くした私たちの運動の、線香花火のような悔しさと切なさと、それでも屈服はしていない強靭さを、映画は描く事ができたのではないかと思う。私たちは今でも、そこから「ポスト川口の内ゲバ」を問い続けている。

 水谷保孝氏は先の『人民新聞』における映画評で、この映画が「他面では、私たち中核派のテロル行使の必然性や幾つかの誤りの検証もやっていない。」と、「中核派の誤り」について言及した。既に組織を離脱したとは言え、当時の幹部だった水谷保孝氏がこれに触れた事は大きい。早大解放闘争に歩み寄ってのご発言だと思う。おいおい、それらについても交流しあっていきたいと思う。この意味では、この映画が製作されて良かったと思える。或いは将来、更なるドキュメンタリー映画に繋がるかもしてない。