ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

川崎恭治「早稲田の記憶 川口君事件・解放闘争終息以降」(『情況』2024年夏)

 川崎恭治君は1977年早稲田大学社会科学部入学、1980年中退とある。中退する前の頃、友人を介して私は会った事がある。革マル派に支配された大学で自主的活動をし、狙われていて危ないと云う事で、どうしたものかと藁をもすがる思いだったようだ。1973年頃、早稲田解放闘争は終焉、それから6年くらい経っていた。その差は大きくまた大衆的運動もなく、話は聞いたのだがロクなアドバイスもできず、私はただの藁に終わった。

 当時私は労働運動時代で、それもあって川崎君は次は或る出版社で臨時労働者解雇撤回闘争の当事者になった。これにもしばらく付き合ったので、川崎君の事はよく知っている。

 当時は社会科学部と商学部革マル派学生自治会が残っていた。私たちの時に臨時執行部までできていたのだが、第一文学部と違って大衆運動が続かず、彼らは初期から重点的に暴力的に圧殺された。その学生弾圧手法はこの本文にある通りで、川崎君は革マル派による拉致寸前までいっていた。言いがかりも同じで「中核派のスパイだろう」である。4・5人の革マル派に囲まれた時、ゼミ友達が「また川口君事件を起こすんですか?」と言ったら革マル派は引き上げたとの事だ。私たちの早稲田解放闘争の余韻はまだ残っていたようだ。川崎君の別の友人がやはり学生会館に連れ込まれて尋問を受けたが暴力はなかった。その友人は「暴力を受けなかったのは、川口君事件後の学内民主化運動があったおかげのようにも思う」と語っている。これは党派間の内ゲバ死が多数生じていた時代で、である。

 川崎君のこの文章に接した事で、私の中で重要な変化が起きつつある。それは、川崎君と代島監督、鴻上演出家が同年代で、同じ早稲田大学時代を過ごしているからだ。いずれも或る意味で遅れてきた世代なのだが、川崎君は現に革マル派と闘っていた。それに、私にアドバイスを求めて来た事で、個人的にだが継承性がある。継承と言うのはおこがましいのだが、私の方から彼らの時代に対する実感的アクセスが、川崎君と云う旧知の人格を通して可能になる。代島監督や鴻上演出家は当時は革マル派に睨まれたわけでもなく、闘ってもいない。単純に遅れて来た時差だけがある。その歴史的距離感が私の認識を明晰にしつつある。例えば、やはりその少し後の時代にいた花咲政之輔氏などが霧の中からふわりと現れて来るような気がするのである。この事は大事にしたいと思う。

 

「結局、私たちの小さなサークル運動とはなんだったのか? 本と映画に接して、夷をもっても服さなかった『まつろわぬ民』のそれに少し似ているかも知れないと思うようになった。それで、気持ちも少し落ち着いた。」(p285)

 

 川崎君も長い間、トラウマを抱えていたようだ。樋田君の本や代島監督の映画によって、それが少しほどけたと最後に書いている。

 

 「そうすると、記憶の奥底に封印していた活動が蘇ってきた。そんな過去を振り返る勇気を、樋田氏や代島氏達から私はいただいた。」(p285)

 

 「時代の生々しい証言を訊けたことに感動した。」(p285)ともある。

 

 おそらくだが、こうして文章化して雑誌に寄稿するほどでもない多くの学友達が、こうして振り返る事を今のそれぞれの生活の中でやっていると思う。中には、立場の相違で異論反論もあろうが、それも含めてでいいから、できるだけその声を集めることはできないだろうか、と私は最近思うのである。

 

 川崎君は私の「X団顛末記」を「お薦めしたい」と言及している。どのように読んでもらえたのか、一度会って話してみたいと思う。