ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

川口君虐殺直前、もう一つの「反早稲田祭」:1972年11月1日〜6日。

 私の中国語クラス2Tは1972年の革マル派早稲田祭に、実はクラスとして参加した。それは私が言い出して皆に協力してもらって実施したものだ。

 革マル派早稲田祭実行委員会に、何をやるのか企画書を出し、幸に通過したのだ。教室を一つ与えられた。31号館三階の302号室だったと思う。

 テーマは「コミュニケーションは可能か?」。

 部屋には何の飾り付けも一切なく、真ん中にイスが一つだけ置いてあると云う、ベケット風のシュールな空間だった。そこに私が一人で座っている。それだけ。

 私は段ボールの大きな紙を首から胸と背中に下げている。

 そこに「私は見えません。聞こえません。話せません。コミュニケーションは可能か?」

 と書いてあって、私は念のためにタオルで目隠しをしている。

 入口の外には、クラスメートが作ってくれた幟が二つほどあって、同じ文言が書いてある。

 

 お客が入って来る。何ごとかと思う。で、何これ、とか話しかけて来る。私は何も答えない。ただ、ひたすらそれだけの、パフォーマンスだった。お客は訳が分からないまま、出ていく。

 今だったら、その様子を全部動画に撮っておくものだが、当時、そんな洒落たものはないから記録はない。

 最後には、クラスメート数人と一緒に、その姿で人で溢れる本部キャンパス内を練り歩いた。「何やってんの?」としまいには怒り出す人もいた。何を言われても何も返答がないのだ。

 やったことはそれだけだった。

 意図としては、真面目に言えば、本当にコミュニケーションとは何かを問うものである。同時に、裏の意図は「君臨する革マル派、支配される学生」で、「何も受け付けない、何も語らない、こういうおとなしい学生が革マル派を支持するのが究極のキャンパス風景なのだろう」だった。そして、「そんなに屈辱を与えられた学生でも、こうやって公然と反早稲田祭をやってるんだ」と。

 もちろん企画書には哲学的空論を適当に書いておいた。そんな本音は書いてない。

 

 手伝ってくれたクラスメートはこの本当の意図は分かっていて、その夜は皆で打ち上げの飲み会をやって騒いだ。早稲田祭をおちゃらかした『ザマアミロ、革マル』だったのだ。

 この密かな反早稲田祭が終わって二日後に、川口君が殺された。