ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

水谷保孝「映画『ゲバルトの杜』批評:『情況』2024年春号

「川口君追悼とは真逆の虐殺者免罪映画」

 

 表記のタイトルで批評が掲載された。

 実はこの著者とは一度お会いした。渋谷で4月10日の最後のプレス試写会が終わった時だ。試写会が終わった途端に会場で表記の言葉通りの言葉を放ちながら会場を出られた。遅れてロビーに出た私は、こちらから歩み寄ってお話を聞いたのだ。

 第一次早大闘争に関わった中核派であると自己紹介された。私より4つご年配である。

 別の場所のブログで樋田君の著作を批評しており、好意的に論じておられる。

 水谷氏の映画批判の中心点は、「『革マル派の暴力的学園支配』という肝心要のキーワードが後景に退けられ、早大生たちの必死の武装自衛までが「内ゲバ」の文脈で整理されている。」と云う所にある。ここは私もそう思っており、5月5日の早稲田奉仕園における先行上映会の際に発言を求められ、同じ事を言ったし、同じ事をその日のレジュメにも書いてある。それはこのブログに最初に載せた文章である。

 ただ、暴力的学園支配と闘いながらの自治会再建運動をも収録するには相当の時間を取られるであろうから、監督は割愛したのであろうと思っている。私の取材だけで4時間はカメラを回しているのだ。また亀田博君の取材は本編に全く採用されていない。しかし、それは同時にこの映画が「内ゲバ検証」が主題であることを意味し、後半の二人の東大生死亡事件とそれに関わる内田樹氏と石田英敬氏の話に繋がっている。入口が早稲田で出口が東大なのである。それ自体、元々やや無理がある。それに内田氏と石田氏は革マル派関係だった事は関係者には周知の事で、死者への鎮魂とは言え当事者側からすれば「虐殺者免罪」と映るのは仕方あるまい。実際問題として取材に応じてくれる人が少ないのも一因ではあろう。

 記録映画の難しいところではある。しかし作品は自分で世間を歩いていくから、どのような批判も好感も大いに議論があった方がいい。高齢になったとは言え、当事者世代はまだ多いから、どしどし感想や批判が出ることを期待している。革マル派側にいた人々からの声も聞きたいものだ。

 水谷保孝氏の誠意が文末にある。代島氏批判は翻って自らへの批判となって「突き刺さる」と言われるのだ。

 「学友たちが川口君の虐待死を風化させない、在りし日の川口君を忘却しない、と誓って半世紀を生きてきた姿に照らして、そうできなかった自らを深く恥じる。早大解放闘争を実現したあなたたちの川口君への追悼と復権の営みに心からの敬意を表する次第です。」

 このような言葉を、年長の中核の元闘志から頂くとは思ってもなかった。樋田君の本は一石を投じたのだ。一文アーカイブを構築して来た2Jクラスや私たちのみならず、決起した全ての早大生の一人一人にこの言葉が伝わって欲しいものだ。