ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

「X団」顛末記―樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に寄せてー 「正しく公正で確かな力(村上春樹)」は私達の言葉にあったかー

 

 本稿は、2022118日、早稲田大学文学部教室にて開催された川口大三郎君没後50年記念集会において最初に短い版が配布された。その後二週間後に、大幅に加筆されて第一文学部を中心とする関係者に回覧され、種々のご意見を頂きそれ反映さた。それを更に公開用に推敲してまとめたのがこの最終版である。映画「ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ」の特別上映&シンポジウム(@早稲田奉仕園202455日)において配布した10頁の「映画『ゲバルトの森』に寄せて」は本稿の要約版である。20245月)

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       「X団」顛末記樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に寄せて

 

            「正しく公正で確かな力(村上春樹)」は私達の言葉にあったかー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             早稲田大学第一文学部・学生自治会

             臨時執行部副委員長(1972年〜1973年)

                                                        野崎泰志

 

 

 

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目次

 

プロローグ

 

本稿の目的

 

序章  村上春樹の問い

 

第一章 川口君虐殺糾弾・早稲田解放闘争における世代のねじれ

 

1 世代のねじれ

2 行動委員会とは何かー世代のねじれの公然化:その一

3 団交実行委員会とは何かー世代のねじれの公然化:その二

4 「諸君らの『敗北』そして僕らの屈辱」ー世代のねじれの公然化:その三

5 第一文学部団交実行委員会の会議用レジュメー世代のねじれの公然化:その四

6 全共闘運動の彼方へ:『現代の眼』における論戦ー世代のねじれの公然化:その五

 

第二章 自治会再建運動の諸相 

 

1 一文有志の記録:あくまでも大衆性を基盤にした自発的な運動

2 九原則:第一文学部学生自治会「憲章」

3 ぼくらの未知の欲望が明晰さを生む:規約改正委員会設立宣言

第三章 自衛武装の諸相

 

1 1973.6.4と云う衝撃とオレンジ・ヘルメット

2 自衛武装を巡る論争と7.2二連協中庭武装集会

3 「X団」の誕生と展開:7.13二連協・X団中庭武装集会

4 構造的暴力論:X団の終焉

 

第四章 敗北への道程と自治会再建の可能性

 

1 総長拉致団交:全学団交実行委員会の敗北

2 図書館占拠闘争:世代のねじれの最終章

3 学生自治会再建・承認問題:自治会再建はできたか

 

第五章 早稲田解放闘争は終わらない

終章 村上春樹への返答

エピローグ

参照資料

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プロローグ

 それは、吐き気と食欲喪失から始まった。1972年11月9日木曜日に早稲田大学文学部学生・川口大三郎君殺害のニュースを昼頃にテレビで見た時だ。私は下宿で、身体を屈曲させたまま踞って暫く立ち上がれなかった。世界が胃の中から裏返しになったような感覚だった。親しくはなかったが会ったことはある。同じ大学の同じ学部の同じ第二学年の同じ中国語のもう一つのクラス仲間。彼が自治会室で前の晩、学生自治会にリンチ殺害された。

 その日は授業はなかったのだが、掴み所もないまま誰かに会いたくて茫洋と登校した。誰も居なかった。居るかも知れないと思ってキャンパスの近くの麻雀屋に行くと、案の定、クラスの何人かがやっていた。最も堕らけた、良く言って普通の連中だ。川口君の事、知ってるかと問うと、知っていると牌を振りながら言うのだった。「許せねえよなあ、ローン」みたいな連中。彼らが実はその後のクラス討論やデモの中心になる。とにかく、明日の語学の授業でクラス討論しようと約して分かれた。

 そんな風にして、私達の2T(中国語二年Tクラス)は蠢き始めた。この連中はその麻雀屋の屋号を採って「西田派」なるプラカードを掲げて、デモや学生大会に馳せ参じる。それが写った最初の学生大会の時の写真が、当時の新聞に残っている。

 一晩考えた。週末を挟んで来週にクラス決議になると遅くなる。どうせなら翌日のクラス討論で決議したい。私は徹夜でクラス決議案を書いた。

 11月10日金曜日は大学が休講措置をとった。それを知らず級友がいつも通り20数人集まった。クラス決議案を討議し一字一句修正した。私は後に引かない覚悟で、賛同の者の氏名を列挙すると言った。

 その日のうちに紙やマジックペンを買って作業をして、翌日11月11日土曜日、早朝に文学部キャンパスに数名で行き、革マル派の立て看を剥がして張り付けた。氏名も列記した。立て看を拝借する際に見つかって「殴られるのは嫌だねえ」と或る男が言ったので、朝飯も食わずに7時頃に行ったのだ。これが全学で最初の革マル自治会糾弾の立て看(ベニヤ板に紙を貼り付け立てかけただけの看板)だった。以後、全学でクラス決議は文字通り林立した。この日、私達は後戻りできない別の世界に足を踏み入れたのだった。政治党派とか何にも知らない只の正義派で怖いもの知らずだった。

 第一文学部臨時執行部の副委員長に私は選出された。最後には精神的に敗北して私は退学した。でも心の底では今でも折れていない。自衛の為に、第一文学部非公然武装部隊まで私達は編成して闘った。武装とは何を武器とするかである。言葉もある、詩もある、音楽もある、人糞爆弾もある、たまに鉄パイプを選んだ者も居ただけである。武闘訓練の場でヘルメットを被り鉄パイプを抱えながら「重たくて振れない」と泣いた女子学生も、自らの武器を選んで闘った。私たちは皆、そんな普通の学生だった。

 私の人生に川口君はいつも陰に陽に、悪く言えば付きまとって、良く言えばいつも居てくれた。だが、問題は川口君にそのような物語が無いことである。何も無いという彼の空白をせめて埋め合わせていきたい。私も私なりに記録を残す事にした。あの時立ち上がった早稲田の仲間が生きて行く限り「11・8は終っていない」と思うからである。

 

本稿の目的

 1972年11月8日の夜、早稲田大学文学部キャンパスの学生自治会室で、当時二年生の川口大三郎君(20歳)が学生自治会革マル派によってリンチ殺害された。当時は新聞やテレビで大きく報道され、世間を震撼させた大事件であり、同時にそれに対して立ち上がった早大生の自治会再建運動は注目をあびていた。全学の一般学生によるその糾弾運動が始まった時、革マル派の牙城である早大のそのまた最大の拠点であった第一文学部の学生は先頭を切って学生大会を開催し、その自治会をリコールして臨時執行部を樹立した。その委員長が『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋、2021年11月10日、文庫版:20244月10)を上梓した樋田毅氏、副委員長が私だった。樋田氏の著作は記者としての経験に裏打ちされた入念な取材をもとに、当時の状況を良く描いている。私は自治会再建運動に関しては彼と気持ちを一つにして行動した一人である。しかし、事態が革マル派の全面的武装襲撃の時期を迎え、集会や会議などの自治会運動を守る為にやむなく自衛策を取る方針に転じて、後半において彼とはやや行動が別れるに至った。

 事件は革マル派が川口君を敵対する中核派のスパイと呼んだ事により、いわゆる「内ゲバ」として注目を浴びた。それは真実ではない。しかし自治会再建運動はいやおうもなく更なる党派闘争の嵐に巻き込まれ、一般学生主体の自治会が内ゲバ・レベルと同様の革マル派の攻撃に晒され、結果として運動は消滅した。日本中で関心を呼んだこの運動は、他大学では何一つこうした武力制圧などない中、ただ独り、早稲田大学の新学生自治会だけが全国党派革マル派の集中的武力攻撃を受けた。又、最も多い時は本部キャンパスにおいて、反革マル諸党派と革マル派双方で約300人の鉄パイプ部隊が日に三度も激突(1973.6.4するという流血の戦場と化し、延べ数百人の負傷者を出す舞台となった。

 ここに記すのは、第一文学部の一般学生男女がそうした党派闘争を否定し、自立した新自治会を守るために最後には自衛武装までして巨大党派と対峙し、全国動員の大部隊に襲撃されて敗北していった物語である。その学内最後の学生集会、独自の武装集会を堅持した男女学生達、その名を、公然武装組織「一文二年絡協議会」、そして非公然武装遊撃隊「X団」と言う。

 なぜそこまでの混乱になったのかに関して大学はもとより行動委員会や団交実行委員会の存在に疑問を呈しつつ、自衛武装にまで至った文学部男女学生達の青春像をここに報告する。そのために本稿は、前世代の全共闘世代と新世代のねじれをキーワードとしそこに多くの矛盾と混乱の起源があった事を考察し、当時立ち上がった早大四万の全ての仲間達に、曖昧なまま不自然に消滅した自治会再建運動の全容が少しでも見渡せるよう、樋田氏の著作を側面から補足するものである。合わせて現代の若者達に対しても、半世紀前にかかる理不尽な出来事があったことを歴史の教訓として残し置きたい。今日の日本社会の状況理解の一助として頂ければ幸いである。

 樋田毅氏の著作と合わせて表裏の関係になると思われるので、運動経過の詳細や時間的経緯などについては重複を避けた。全体の流れについては氏の著作に当たられるようお願いしたい。なお、最も詳細な記録は私達が構築した「1972.11.8-川口大三郎の死と早稲田大学」のアーカイブであり、本稿もそれに依拠している。

 

序章  村上春樹の問い

 

 村上春樹は1968年4早稲田大学第一文学部入学、演劇科を7年かけて1975年春に卒業。1972年11月8日の川口君殺害事件以後、二年半在学した。そして当時二年生だった私達の大部分と一緒に卒業している。周知のように『海辺のカフカ』には川口大三郎君を模した人物が登場する。

 

「反体制セクト間の対立が深まり、いわゆる『内ゲバ』で人の命があっさりと奪われるようになってからは(僕らがいつも使っていた文学部の教室でも、ノンポリの学生が一人殺害されました)、多くの学生と同じように、その運動のあり方に幻滅を感じるようになりました。(中略)そこには何か間違ったもの、正しくないものが含まれている。健全な想像力が失われてしまっている。そういう気がしました。そして結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支え切るだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういう事です。言葉には確かな力がある。しかし力は正しいものでなくてはならない。少なくとも公正なものでなくてはならない。言葉が一人歩きをしてしまってはならない。」(村上春樹『職業としての小説家』、p37)

 

 1973年1月24日に、第一文学部学生自治会新執行部はその前日の学生大会で決まった「期末試験ボイコットの一週間ピケットストライキ」を行いクラス討論などの場を確保した。私も他の執行委員やクラス自治委員と一緒に先頭に立って文学部キャンパスに入り、スロープ上のバリケードの前で防衛に当たっていた。一週間前の17日には革マル派の角材と投石で私達は中に入れなかったが、この日ばかりは学生が自由に出入りできた。顔見知りの専修の男子学生数人がスロープの上からバリケードの隙間を出て帰ろうとしていた。私に声をかけて来て談笑した。その中に見知らぬ男が居たので所属と名前を尋ねると、「演劇科四年、村上です。」と言った。何を話したか覚えてないが、寡黙で静かな佇まいの男だった。ストライキで試験がなくなって複雑な気持ちの4年生だったはずだ。

 村上春樹が上記の文章を書いたのは2009年か2010年頃だと云う。川口君没後37年か38年後である。没後50年を越えた今、村上春樹のこの思いを問いとして受け止め、私達はどうだったのか振り返ってみたい。

 

第一章 川口君虐殺糾弾の早稲田解放闘争における世代のねじれ

 

1 世代のねじれ

 

 ここではまず当時の学生の間にあった世代のねじれを考える。そのねじれが革マルの武力弾圧の一層の深化を呼び、当初柔軟だった大学の態度硬化をもたらし、警察権力の介入と新左翼潰しに拍車をかけ、結果として自治会再建運動も大学責任追及も頓挫したと云う思いが残っているからだ

 一文臨時執行部の役員9名(『彼は早稲田で死んだ』では7名となっている。p96文庫本p108は、最初の学生大会で決議された臨時規約によると4年生1名、3年生2名、2年生3名、1年生3名であった。この3年生と4年生組が1969年か1970年入学組である。規約には9名の名前が入っている。この一人の4年生、3年生の一人、2年生の二人がこの後、行動委員会方式の活動に傾斜し後に団交実行委員会へ向かう。1年生の樋田氏が委員長、2年生の私が副委員長、4年生のK氏が書記長という構成だった。従って当初から、後の行動委員会系の四人と、3年の一人と樋田氏以下の一年生三人に、ちょうど私は挟まれる格好だった。第二次早大闘争の学生会館問題などを経験した反戦連合などの生き残りの3・4年生と、そうした時代に遅れて入って来た1・2年生との同床異夢はこうして始まった。

 

2 行動委員会とは何かー世代のねじれの公然化:その一

 

「学生大会で臨執を選出したものの、集会妨害、中傷ビラ、個人的恫喝など、日ごとに革マルの反撃が暴力化し、一文では、臨執が構内に入ることが困難な日が続くようになった。そこで、臨執の防衛を含め新自治会の立ち上げを本格化するための行動委員会結成への動きが3・4年生を中心に高まった。一文日本史3年行動委員会準備会のビラには、行動委の定義が次のように記されている。

 『行動委員会とは、個々人の主体的な決意を基*とし“自立・創意・連合”の原則によって各人の、各クラスの闘いとエネルギーを能動的に機動的に結合してゆく連動体である。全てのクラス・サークルで行動委員会を創出し臨執を守り、臨執の闘いを実体的に保*し、共に闘いを進めてゆかねばならない。

 何度でも云う。我々の闘いは生み落されたばかりであり我々の前途には想像を絶する困難が待ちかまえているのだ、革マルは我々が考えている以上に狡猾であり我々の未熟な闘いに比してはるかに政治技術において、組織力においてすぐれているのだ。革マルの組織をあげた(途中判読不能)反撃、学校当局との闘いをも組織しての自治***への闘いの中で新自治会*の防衛を全学友のクラスの団結中に一般化してしまう**は、闘いの困難さと緊急さに対して余りにも無知であり、無責任であり、無力であると云わねばならない。』」(*は不明文字、1972.11.8-川口大三郎の死と早稲田大学アーカイブ、以下、これを省略)、http://www.19721108.net/1972122日)                 

 最初期の行動委員会はこうして臨時執行部や各種の活動の防衛が主眼だった。また、川口君のいたクラス2年Jクラス(中国語)の中で早々に行動委員会が生まれた。これは、以下にあるように自治活動の防衛と云うよりも自由な個人の主体的活動というカテゴリーの行動委員会の萌芽である。

「11月中旬というか、17、18日だと思うがクラスの内部で、今回の川口君虐殺糾弾のために全員が参加できるような運動形態を作ろうじゃないかという話があって、(中略)僕達は一党一派に属さないんだ。と同時に、川口君虐殺徹底糾弾の闘いというものを押し進め、川口君の殺されていった事実関係というものを明確にし、そういう確認点と、それからこの問題について考え、何らかのことをなして行こうと、デモに出たり、あるいは討論をなしてきた。そして、そういうもの全てが行動委員会に結集できるようにするんだ。その場にいる者全てが討論の場に参加し、そしてまた決議し行動するという、そういうものとして、行動委員会を規定し、それを全学に提起していったのが、今ある行動委員会の発端であると思う。」(第一文学部自治会執行委、二J-11・8行動委員会、N君。「座談会—川口君虐殺問題。11.8のつきだしたもの。<虐殺糾弾>の原点を問う」、『早稲田キャンパス』1973年3月10日)

その場にいる者全てが討論の場に参加し、そしてまた決議し行動する」と云うのは「やりたい者がやりたい事をやる」全共闘方式で、学生自治会の基盤としての民主的クラス活動とは異なる。その場にいる者だけで行動すると云う「行動ありき」である。これが全学的に波及して行き、自治会再建運動とは微妙な距離が生まれていく。

樋田氏の取材に対して2Jクラスの二葉幸三氏が以下のように語っている。

 「川口が殺されるんだったら、僕だって殺されてもおかしくない。僕も、中核派の人間を知っていたし、会ってもいた。クラスには、川口と僕を中核派の集会に誘った別の級友もいる。この級友は、僕や川口よりも、はるかに中核派に近い。」(『彼は早稲田で死んだ』、p54

樋田氏や私などがクラスを基礎にした自治会再建に希望を持って革マル派自治会のリコール運動を起こし、多くの学生の参加を呼びかけている段階で、川口君のクラス2J最初の一文学生大会(1972.11.28)の前から行動委員会方式を発起していた。なぜそのように急いだのか。N君は同じ座談会で、2Jクラスは前年の学費反対運動の際に崩壊したと言っていた。た、前年の学費値上げ反対闘争の際、同じ中国語のクラスの2J私の2T2Tから呼びかけて一度合同会合を持った事があった。私が川口君を知ったのはその時だが、その時2Jはシーンとして誰も積極的に話し合おうとはしなかったのを覚えている。その時は分からなかったが、二葉氏の証言を読んで今は分かるような気がする。革マル派のスパイを警戒していたのだろう。

1972年11月20日に川口君のクラスで「11・8、2J行動委員会」が発起され(『声なき絶叫』,p149)、12月2日付の2J行動委のビラがある。また、同12月2日に「第一文学部行動委員会(準備会)」が結成された。「自立・創意・連合の原則」で始まった(『彼は早稲田で死んだ』では121日とされている。p107。又、他に文学部では「一文行動委連合(準)略称LAC」(1973年1月29日)等がある。行動委・実行委と乗ってなくても、「自治について討論」、「行動隊20名」、「教育問題ゼミ」、「自主講座グループ」、「授業ボイコット運動」など、「全てのクラスで自主的・独創的運動の創出を!」のビラには一文の七つのクラスの活動が1972年12月段階で記録されている。翌1973年2月に学生大会動議案を出す「BACHグループ」も四つのクラス横断的な広義の行動委員会の一つである。そうした種々の広義の行動委員会が存在していたから「行動委連合(準備)」も呼びかけられた。

記録としては「一文3・4年行動委員会」が嚆矢で1972年11月30日付ビラにおいて革マル糾弾と共に「民青(共産党系)諸君に対しても批判的立場をとる」と明らかにしていた(朝日新聞、1973年2月15日)。1973年1月30日の学生大会には「一文行動委」として付帯決議案を提出し、「我々は〈自由〉一般を語るのではなく、一人の人間の死をとらえ返す我等の思想と、一人の人間の死に触発された、闘わざるを得なかった我等の初志を問題としたい。」とあるように(http://www.19721108.net/、1972年1月23日)、状況の中における共同的主体性の構築から運動を広げようとし、必ずしも自治会再建を一義的ゴールとはしてなかった。

 こうした分岐については当初から認識されており、筆者不詳のビラ「現状分析・総括を踏まえての行動方針」では運動の担い手として以下の三分類を掲げている。

 

「一年生を中心とするクラ討連(註、クラス討論連絡協議会)。二年生2Jを中心とする部分。三・四年行動委を中心とする部分。(中略)一年部分、三・四年部分の相違を本質的に捉え返すことでその充実を克ち取り、1/8総決起をめざそう。」(http://www.19721108.net/、1972年12月12日)

 

 しかし、第二次早大闘争などの経験組の3・4年生はデモなどの直接行動や情勢判断では一歩先んじていた。その為に、「革マル派と直接的に対決する部分とそうでもない部分との経験が共有されなくなって来た。(中略)行動委と臨執との関係の不明確さが顕在化(指揮系統)。」と「一文有志の記録(2月11日)」(後述)にある。上記「一文行動委連合(準)略称LAC」(1973年1月29日)のビラには、「三里塚の闘いを早稲田に」と新左翼党派(社会主義青年同盟解放派反帝学評)の主張も小さくある。即ち、行動委員会とは第二次早大闘争の生き残りの世代の3・4年生中心に立ち上がった活動家の集合であり、同時に革マル派と敵対していた政治党派の活動家(手書きビラの書体と語彙で当時は分かった)の寄り合い世帯であった。各学部で結成されて合同しそれが後に早稲田全学行動委員会(WAC)の黒ヘルメット集団になる。これが革マル派と対立する諸党派と連携して、後に連合した武闘集団になるのである

 文学部は3年から専修に別れ、卒業・就職を前に専修単位で選出される自治委員は少なかった。3・4年生で行動委に結集した学生はクラス活動の基盤をほぼ持っていないという背景があった。語学クラス単位で行動した1・2年生はクラス討論を基礎に自治会再建に取り組み自治委員をほとんど選出した。この自治委員選出率、一年73%、二年75%、三年39%、四年0%と云う数字にも、行動委員会が自治会再建に淡白で直接行動に傾き、1・2年生が自治会再建運動に重点を置いていた当初からの関係のねじれが見て取れる。「四年生独自の動きがほとんどなかった」と「1973.2.13総括集会へ向けて」という一文執行部のビラにもある。http://www.19721108.net/、1973年2月13日)

しかしながら、「我々の闘いは生み落されたばかりであり我々の前途には想像を絶する困難が待ちかまえているのだ。」と云う正当な現状認識と危機感、「一人の人間の死をとらえ返す我等の思想と、一人の人間の死に触発された、闘わざるを得なかった我等の初志を問題としたい。」と云う時代へのより広い展望から見た主体性論。発足当時の行動委員会の言葉には、あの危機の中で絞り出された言葉があり、今でも胸を打つものがある。

 

3 団交実行委員会とは何かー世代のねじれの公然化:その二

 

「団交実行委員会情宣局」名義の「2/5第3次団交に向けて!」と云うビラがある。

 

「川口君虐殺糾弾闘争のその根底にまる内実を獲得すること、そのことが問われていることを確認しよう。我々の運動は、自治会承認を自己目的化するものでは決してないし、自治会建設を至上命令とするものでもない。多様な運動を保障し、その中で阻害物として登場する当局―革マルの圧殺を断固粉砕することが我々の当面の任務であるし、自治権奪還闘争として外化している我々の運動の内的な限界を止揚していくような質を内包するものでなければならないであろう。」(http://www.19721108.net/、1973年2月5日)

 

 「我々の運動は、自治会承認を自己目的化するものでは決してないし、自治会建設を至上命令とするものでもない。」と学生大会の総意に反する意見が述べられている。この「団交実行委員会情宣局」という主体名は自称であり新執行部に組織機関としてこれは後にも先にも存在していない。且つ、行動委によって「一文団交実行委員会」が結成されたのは数日後の2月7日である。これを書いたのはクラス活動の実績がない個人で一文臨時執行部3年のU氏であり、私は直接渡されたので覚えている。「情宣局なんてあるのか?」と苦言を呈した。世代が上の者が多い行動委や団実委はこの辺りから自治会運動を凌駕して先走りを始める。

 団交実行委員会は行動委員会系の学生が次に形成した運動体で、各学部にも作られ最後に全学団交実行委員会となる。これが後の1973年5月8日の総長拉致・団交を実行し、5月17日の再団交の確約を取るが、「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」と云う理由で団交拒否を通告される。これを境に団交実行委員会は破綻し、そこを突いた革マル派からの学生自治会や一般学生に対する鉄パイプ攻撃が本格的に始まりキャンパスは戦場化していった。

 

4 「諸君らの『敗北』そして僕らの屈辱」:世代のねじれの公然化:その三

 

「四年生”卒業予定者”に送るアッピール

川口君虐殺糾弾、早稲田解放をかかげた我々の闘いは、昨年の学生大会で革マル系「執行部」をリコールし、そして我々の新執行部を打ち立てる闘いとして実現してきた。そして、我々は、その過程で、学内管理支配を問題にし手をかける闘いを展開した。卒業予定者諸君が忘れもしないであろうあの69年10月27日告示の撤廃を要求する闘いとして。そして何よりも諸君が、そして我々が、その下で屈辱され、我々に「死せるような生」を強制したあの醜悪な革マルを徹底して糾弾し、早稲田の解放を克ちとる闘いとして。(中略)必ずや革マル白色テロ政治支配とその制度的保証として具していた当局村井・学内外理事(中略)を徹底的に糾弾し、かつ放逐の闘いを、諸君らの「敗北」のそして僕らの屈辱の大転換としてやりとげるということをはっきりと宣言し、共に全ての学友が、川口君と共に最後まで闘い抜かれんことを訴える。」(http://www.19721108.net/、 1973年3月31日

 

日付がないが、1973年2月8日に実施された卒業予定者の期末試験に向けて配布されたと思われる。「諸君が入学した‘69年以後の早稲田の日常を想起しつつ」で始まり、「卒業予定者諸君が忘れもしないであろう、あの69年10月27日告示」と続き、「諸君らの『敗北』のそして僕らの屈辱の大転換としてやりとげるということをはっきりと宣言し」で終わる。敗北と屈辱の大転換と、過去のリベンジをここで表明している。同期の卒業予定者への訣別の辞とも読めるこの文章は、臨時執行部書記長だった行動委4年の故K氏によるもの。彼は第二次早大闘争以来のノンセクトで一文行動委の指導的立場の一人であった。1969年から1973年に至る早大の状況がここに示され、世代のねじれがはっきり読み取れる。

 この四年K氏、上記の三年U氏が一文臨時執行部9名の中の旧世代で、いずれもクラス活動は持ってないままで執行部に入った。今から思い返しても自治会再建運動には関心は元々なかったと言っていい。そして彼らが中心となって団交実行委員会へと分離していく。こうした旧世代への反発は1972年12月段階で既に表面化していて、2Gクラスの決議が残っている。

 

「クラス協議会はクラスの正式代表に限定せよ。行動委あるいは有志・個人は入れない。(中略)今問われている事の本質は政治課題(国内外政治課題、ベトナム、相模原etc)に対する態度・方針を決定する事ではなく、そのような課題を含む様々な問題(大学の自治、文化運動etc)を一切のセクト的引き回しや暴力的威圧を絶対に許さない、自由に考える事が出来る場と保証・・新自治会・・を建設する事である。」(http://www.19721108.net/、1972年12月4日)

 

この後段のバランス良い学生自治会論は、1969年以降、学生自治会がそのまま政治党派に純化して政治課題に傾斜し、自治会争奪戦が日常となり、そこに川口君虐殺事件も起きた事を見抜いている。旧世代へ自覚的にやや距離をとったこうした二年生もいたのである(臨時執行部の一人だったM氏と思われる)。こうした微妙な亀裂について、報道機関も指摘していた。1972年12月5日の全学総決起集会について朝日新聞は次のように述べている。

 

「5日の全学集会。集まった約1500人のうち、500人は隊列から一歩離れ遠巻きにした格好。2対1の微妙な“断層”がうかがわれた。革マル派執行部の『戦闘的自治会』にイヤ気がさしていた学生、政治闘争には無関心だった層が、『反暴力』では結集した。だが、全学4万を超えるマンモス集団。とくに3・4年生は語学のクラスがなくなり、お互いの連絡もとりにくい。いきおい一群のリーダーの顔ぶれは固まる傾向もある。アジ演のオクターブもあがる。それがまた、セクト・アレルギーの学生たちの足を遠ざけるようだ。」http://www.19721108.net/、1972年12月7日)

 

このK氏は樋田氏の本でもたびたび言及されている。「セクト自治会にノーを突きつけてきたのに、民系の諸君が立候補していいんだろうか?」(『彼は早稲田で死んだ』、p93文庫本p105と最初の学生大会の前夜(実際は明け方)に発言し、臨時執行委員の立候補をした民系数名に反対した。私九原則(後述)の「三」に「我々はセクトに入っている人間というだけで、その人の主張を無視してはならない。」と書き、クラス討論連絡協議会において承認されたのはその日から15日後であった。私はK氏の発言はもとより、樋田氏が民系の学生の辞退を申し出たのは間違いだったと思ったからこれを書いた。K全共闘の生き残り革マル派から目の敵にされていたのは民青系と同列であった。後に、むしろその直接行動主義、大学や革マル派との激突路線の方が自治会再建をより困難なものとした。

 

5 第一文学部団交実行委員会の会議用レジュメー世代のねじれの公然化:その四

 

「11.8川口君虐殺糾弾闘争の更なる質的深化に向けてー団実委への招請にかえて

                     —第一文学部団交実行委員会—

 

(I)虐殺糾弾闘争の現在的地平とその問題点

a したがって、我々の闘いは決して自治会再建運動が目的ではなくそれが糾弾闘争の過渡的な一形態であり闘争の一環だったと言うことを確認しなければならない。

(III)全学総長団交へ向けて

a 早大管理支配体制との根底的な対決の最大の頂点として村井「総長」団交を位置付けよう。団実委はそれへ向けて全力をあげる。

    b 4.2全学団交勝利総決起集会を提起する。「入学式に総長団交を!ーこのスロー

ガンの下、当日新入生の眼前で早大の管理支配秩序の実態を暴露し、闘いの戦列

への参加を訴えていくと共に、最低限責任ある当局者に「団交」を確約させる闘

いを組まねばならない。

(Ⅳ)一文団実委の発展・強化のために

   a  団実委を執行部の諮問機関的存在から一文の大衆的行動機関へと発展させよう。

   b  4月以降の闘いの最大の軸が「総長」団交にある以上、一文での各クラス行動

委、闘争委、執行委員会を併呑するスト団実として広範に再編すべきである。

1973.3.13」

                (http://www.19721108.net/、1973年3月31日)

 

これは1973年の春休み中の第一文学部団交実行委員会の会議レジュメで、「自治会再建運動が目的ではなく」、「早大管理支配秩序を徹底的に解体」し、組織的にもクラス討論を基礎とした民主的積み上げではなく、「各クラス行動委、闘争委、執行委員会を併呑する」団交実行委員会に再編し、「団実委を執行部の諮問機関的存在から一文の大衆的行動機関へと発展」させるとある。行動委員会を各学部執行委員会の内部機関・諮問機関と理解する第一文学部自治会執行委員会とは認識が異なる。組織的にも運動的にも団交実行委員会が自治会執行部を乗り越えて前衛化していくという意思がここで確認されている。以後、団交実行委員会は総長団交追求と革マルとの対峙に集中して行く。このグループはこのような組織的クーデターに等しい言説を公言し、このビラの日付の翌日の入学式粉砕など実際にもそのように行動して行った。

 また政治経済学部の臨時執行部・団交実行委員会の連名の以下のビラでは、「一般学生」に甘んずる事なく自ら思考し自ら行動しようと呼びかけている。これも1969年以来の敗北の屈辱に一般学生を装って自らを免罪し耐えて来た旧世代が、「一般学生」と云うラベルをはがして飛躍しようとしているように見える。

 

「全学の学友諸君!! 当局・革マル・マスコミによって『一般学生』と罵られ、それに甘んずることによって自らを免罪する時は過ぎ去った。今こそ自ら思考し自ら行動するという自主的自発的な運動が要求されている。」(http://www.19721108.net/ 1973年1月25日)

   

川口君虐殺は許せないと云う思いで立ちあがった学生、自治会再建運動に集約せんとする執行部、当局と革マルへの糾弾闘争に邁進する行動委・団交実行委員会、そうした幾層もの重複と乖離。或いは自由な早稲田(川口君の遺志)を目指す運動と、管理体制粉砕など象徴的激突路線への傾斜の間の乖離は、こうして2月から3月のこの時期から徐々に潜行していた。

 しかし学生大会で私たちは革マル自治会をリコールしたが、自治会解散を決議したのではなく再建を決議した。その為に、あとは自治会規約だけと云う所まで運動は進んでいた。当初から自治会再建を無視あるいは軽視したこの第二次早大闘争組や、団交追及に傾く行動委系の者が自治会再建運動を「手作り自治会」や「御用自治会」と揶揄したのは、学生大会の総意に反する。実際にもらは総長団交に失敗した後の6月末以降、拡散し沈黙する。

 この議案を執筆したのも、文体からし上述の文学部4年で臨時執行部書記長だったK氏と思われるが、1973年1月の学生大会で、公正に選出されたクラス委員を基盤とする正規の新執行部になった際に、K氏とU氏はクラス自治委員として選出されてなく執行部から外された。この二人が4月以降の新学年度の授業料を大学に払って学籍を持った学生として活動したとは、その後の経緯からしても思えない。即ち、「我々の闘いは決して自治会再建運動が目的ではなくそれが糾弾闘争の過渡的な一形態であり闘争の一環だったと云う表現はその事を如実に示している。学籍すら持たない者が、19734月以降、全学団交実行委員会へと運動の流れを強引に捻じ曲げたと言ってもいいだろう。その意味でも彼らは彼らのリベンジ闘争を「質的深化」させ、私達の自治会再建運動を利用して勝手にやったと言っていい。

 

6 全共闘運動の彼方へ:『現代の眼』における論戦ー世代のねじれの公然化:その五

 

早大闘争の新しい地平--全共闘運動の彼方へ / 早大文学部有志」『現代の眼』(1973年3月号、現代評論社

 

『現代の眼』は当時の左翼文壇を代表する月刊誌であった。約14000字のこの論文は、1973年1月23日の一文学生大会に触れ、自治委員選挙から新執行部樹立へと「確かに、この戦術が表面的な成功をおさめた学部もある。」と、1973年1月26日に学生投票で樹立された政治経済学部学友会の例に触れており、同30日の一文学生大会には言及がないので、その間に執筆されたと思われる。2月上旬に発売。投稿ではなく現代評論社からの依頼原稿である。中見出しは「何が問われているのか。早大全共闘の破産を超えて。セクト政治は終焉した。問われている根源的な課題。学生戦線の新しい段階を。」とある。

 これに対して、「早大文学部有志に答える(投稿)—早稲田学生運動の右翼的・民青的反動に抗して/早大全学中央自治会」なる約8000字の革マル派からの反論が同5月号に掲載された。これは内容からして3月中旬執筆、4月上旬発売。

 続いて同6月号の読者論壇で、「早大全学中央自治会の論理/西義広」が反論、更に同8月号に、「再び問うー早大生四万人のアパシー/早大文学部有志」(約14000字)が投稿(依頼原稿ではなく)されている。そしてしばらく間をおいて読者論壇の欄に、「早大闘争の今後/早大11.8集会実行委員会」(1974年1月号、行動委)、「早大闘争のもう一つの芽/早大11月の黒い薔薇・早大武装遊撃隊」(1974年3月号、私が依頼されて1974年1月頃に書いたものである。)が掲載され、この論戦は終わる。

 この一連の論戦は、そもそも同誌1973年1月号の読者論壇「早稲田事件とファッショの足音/近藤真治」に対して、同2月号読者論壇において「早大闘争に対する誤謬を糺す/早大第一文学部行動委員会」が掲載されたことに発している。一文行動委は1972年12月2日に結成されている。この投稿は内容的に12月上旬執筆、翌1973年1月発売。流れからして、上記「早大闘争の新しい地平」はこの行動委の執筆者に雑誌編集部が直ちに原稿依頼したものと思われる。

 「早大闘争の新しい地平—全共闘運動の彼方へ」には、革マルのピケ隊を非武装の学生大衆が実力で突破した一文の自治委員選挙や、1/18の中核派部隊の登場への否定的見解、第一波ストライキを決議した1/23学生大会などへの言及があるのでその直後の高揚感が読み取れる。しかし、革マルの内部的動揺を揶揄する表現がある事、第二次早大闘争の全共闘以降の総括を踏まえ自らの内実を公表している事、自治会再建運動内部の矛盾や弱点を示している事など無防備で、「早大文学部有志」の名前であるとは言え革マル派に行動委と名指しされており、左翼商業誌の依頼に応じてここまで自らの陣容を暴露する必要はあったのか疑問が残る。「やがて起こるであろう革マルとの直接対決」を語りながら、楽天的で現場感がない。

 特に内部矛盾として自治会再建路線の対立とある。「早急に自治委員選挙をやり、新執行部を樹立しようとする路線と、当局団交などの闘争を貫徹して行く中でわれわれの問題—川口君虐殺の提起した問題を深化させ、自治とは何かを追求し、新規約制定の後にはじめて新執行部選挙が可能であるとする路線の対立であった。」(『現代の眼』1973年3月号、p194)とあるが、1973年1月23日の学生大会で詳細な仮規約を採択し、新規約についても執行委で合意してすでに動いていた。この「有志」がこれを書いた2週間後には、執行部は規約改正委員会を置き大衆討論(前後24回)に入っている。

結局、この「早大文学部有志=行動委員会」が言っているのは、「『当局に認めてもらう云々・・・』の名目のもとに、当局との『交渉』レベルで自治再建を考えるなら、それは闘争—闘争の主体的条件の確立—の収拾以外の何ものでもないのである。」(同上、p195)とあるように、自己否定・自己変革を通した主体性の確立を闘争の主眼とするということであろう。この雑誌論文の文言は以下のビラからの転用である。12月中旬と思われる原本のそのビラでははっきりと、交渉レベルの「正式」な自治会は「我々の運動とは無縁だ」と断言している。

 

「規約レベルの形式的・制度的保証が問題なのではない。(中略)我々は、我々の自治会を当局に認めてもらうのではない。規約レベルー当局との”交渉”レベルの『正式』な自治会など我々の運動とは無縁だ。(団交は我々にとって闘争なのだ。)」(http://www.19721108.net/、1972年12月12日。「我々にとって自治委員選挙とは何か。一文行動委員会)

 

主体性論は当時誰もが語っており、同じことは「BACHグループ(クラス名B・A・C・Hの横断的グループ)」もより分かりやすい言葉で述べているが(http://www.19721108.net/、1973年2月6日、1・2年BACHクラス有志グループの学生大会動議・議案書)、彼らは自治会再建が目的ではないとは言ってないし、むしろより自律した自治会像を提示している。B・A・C・Hのクラスが連合して提起したのは自治会は「承認」されるものではなく自立してあるものだという根源的な問いであった。

 

「『ぼくらの自治会はぼくら以外の誰かにによって認めてもらうのでなく、財政問題を含めた一切のことを自力で解決していけるような、文字通りの自治=自己権力の態勢こそ目ざさねばならない』と、自治会承認を超えて創意ある運動への転換を呼びかけた。」

                 (https//www.19721108.net/、197326

 

更に「早大文学部有志」は巨大なエネルギーを内包する混沌とした学生大衆の中で、従来の左派スタイルでは困難と自ら述べている。

 

 「これはやりたい奴だけがやり、何らかの意志一致をあらかじめしておいてからやるという“新左翼”スタイルが身についている人間にとっては、非常に困難な試練の場である。どんなに革命的な言辞をはこうと、革マルとカッコよくぶつかろうと、自治会の在り方や、試験への対応を問題にしているクラス討論の積極性と結合することなしには、“左”としての機能を果たし得ない。」(同上、p196)

 

 地道なクラス討論を積み上げて、自治会の在り方や試験への対応や新規約など、ゼロから大衆的論議を尽くして自治会を創設していくのは、彼らにとっては「非常に困難な試練」だったようだ。この「有志」を含む一文団交実行委員会は、その「クラス討論の積極性と結合する」忍耐を諦め、ついには自治会再建は目的ではないと切り捨て、自治会組織を無視して「主体的条件の確立」へ向けて総長団交という象徴的行動へと突き進む。これは彼らの言うところの「やりたい奴だけがやり、何らかの意志一致をあらかじめしておいてからやるという“全共闘”スタイル」そのものへの回帰であろう。象徴的行動は全共闘運動で頻発したスタイルであった。他の門は開いているのに正門から入ろうとして紛糾したり(京都大学)、敗北を予定して象徴的な建物である安田講堂を占拠したり(東京大学)、それは正義運動の側面を持っていた。(高橋和巳「自殺の形而上学」より要約。『高橋和巳全集』第11巻、p335)

 「早大文学部有志」はただ一方において、クラス自治やクラス行動委など多様性と独自性を基礎にして、「各運動体の自主的、自律的運動を促進し、精神的、経済的、空間的な補償を与える機関としての自治会建設を考えるものである。」と云う、或るクラス・ビラを肯定的に見ており、「こうした質を保障するための”行動原則"がかちとられた。」と、「一文九原則(私が書いたもの)」を評価している。そうした「現在早大で模索されているような、独自な課題をもった、自律的な運動体の形成によって」、「これまで停滞と混迷のただ中にあるとされていた学生戦線の新しい段階を切り拓くものとしての重大な任務を担って行かねばならないといえよう。」と結んでいる(同上、p198)。全共闘運動の破産を総括し、表題通り「早大闘争の新しい地平ー全共闘運動の彼方へ」とこうした「根源的な課題」を示し得ているのは旧世代ならではと言えよう。

 

「こうした反革マル自治会創出運動の中で、最近各学部の『行動委員会』の動きが注目されている。全学部合わせても百数十人のこのグループは、一月八日の反革マル総決起集会に黒ヘルメットをかぶって現れ、他の学生との間に『なぜ必要なのか』『思想表現の手段だ』など、“メット論争”をまき起こした。(中略)『行動委』は黒ヘルメットに『C連』(サークル連絡会議)『IIJ』(川口君のクラス名)などと書いているが、『全共闘』の文字をペンキで塗りつぶしたものもいて、ノンセクトラジカルの集合体、いわば“ミニ全共闘”と一般には理解されている。(中略)反革マル新執行部のメンバーの主体は一、二年生で、三、四年生の参加はわずかな数に限られている。それらの学生に対して行動委がどう働きかけてゆくのか。反革マル=新自治会創造の運動の中から生まれて来た“最前衛”の思想と行動が、運動の中で浮上する危険を孕んでおり、その行方は今後の早大の運動の一つの重要なカギを握っている。」(朝日新聞、1973年2月15日)

 

 この朝日新聞の記者の危惧通り、彼らは「ミニ全共闘新左翼スタイル」に回帰して総長団交集中へと向かい、自治会創造運動から遊離していった。

 1973年1月から2月にかけて革マル派は学生大衆に追い詰められて一時的に動揺していた兆候はいくつもあったが、この論文が2月に出て、おそらく強行路線に転じた。3月中旬執筆と思われる彼らの反論は、「我が全中自は四月〜六月の大衆的高揚をかちとることを通じて、かつ、かの11.8自己批判を拠点とし、早大学生運動の右翼的・民青的反動を解体しつくすであろう。」という言葉で結んでいる。愚かにも早大一文有志は「“新左翼”スタイルが身についている人間にとっては、非常に困難な試練の場」と自治会再建運動と反りが合わないジレンマを自ら公言した。そこを革マル派が重点的に攻撃して来るのは火を見るよりも明らかである。

 大学側の全学的資料を詳細に比較検討すると、1973年2月から3月、大学は入試を前にして意思一致し、一斉に各学部の新執行部に歩み寄り、政経学部では五つのハードルのうち四つまで認めさえした。一文は内実のある団交を重ね最後のハードルである新規約もほぼ出来ていた。後述のように新入生からの自治会費代行徴収の許可まで新自治会に求めていた。革マル派の新自治会執行部をターゲットにした4月からの個別テロが始まった時は、各学部の自治会承認はその一歩手前まで行っていたのである。樋田氏の本にも「全学的に承認への追い風が吹き始めていた」(p123)とある。早大一文有志らのこうした商業誌を舞台とした挑戦が、動揺していた革マル派を硬化させ「解体しつくす」と宣言させた。せっかくの自治会再建の芽が摘まれたと言っていい。

 ただ、この雑誌を読む学生は少なかった。詳細な日記を残している「一文有志の記録」にも出て来ないし、発売された後の2月13日の一文総括集会でも話題になっていない。言わば、誌上での新左翼vs全共闘の言い争いでしかない。しかし革マル派を奮起させたのは間違いなく、自治会再建運動の地平は、多くの学生が知らぬ間に、この段階で空中戦のようにして商業誌上で勝手に乗り越えられたと言っても差し支えないだろう。こうして二つの惰性的運動によって、即ち革マル派の暴力的自治会支配と云う惰性と、旧世代の全共闘の好きなことを勝手にやると云う惰性が、自治会再建と云う地道な作業を積み上げていた圧倒的多数の学生の望みを断ち切る事になる。

 

第二章 自治会再建運動の諸相 

 

1 一文有志の記録:あくまでも大衆性を基盤にした自発的な運動

 

「総括討論へ向けて

<我々の運動>

『実力闘争』:権力との直接的緊張関係が明確化。行動委&臨執との関係の不明確さが顕在化(指揮系統)。

『1.23学生大会』:予想以上の人数結集1600弱)。試験強行阻止、自治会承認要求。

『第一波スト(1.24-1.30)』:クラス、かなりの結集。—討論が非能率的、時間の浪費。全体としてはかなり勝利的に克ちとられる。

自治委員総会(1.27)』:多数のオブザーバー、勝利。

『第二次団交(1.29)』:0回答—混乱。

『1.30学大』:再度の1週間スト。団交から連続的に学大、日時設定のまずさ。

『第二波スト(1.31-2.6)』:結集、甚だ悪し。解体現象。

『第三次団交(2.5)』:0回答。

『2.6,2.7学大流会』:執行委、我々の判断のあまさ。内実のなさ。

<団交について>

 大衆性の欠如(団交技術のまずさ。最初から0回答を予測)。10人委というカイライの存在—当局のうまさー10人委の解体を。学部段階には限度—総長団交へ。

<第二波ストがザルスト化し、第三次団交が何故に空転せざるを得なかったのか?何故に学大が二度流会したのか?>

 倫理的感情—自治会建設—早大管理支配体制打倒。—この間の論理的内実の検証の必要性。11月以来の闘いと個人的生活の接点(関わり合い)。闘いを短絡化してはいけない。—闘いの内部をより見直し、何を幹にして、どう闘っていくのか。あくまでも大衆性を基盤にした自発的な運動でなければならない。(1973年2月11日)」http://www.19721108.net/、1972年12月18日)

 

この「一文有志の記録」は旧1TのK氏(以後、TK氏とする)が残した当時の日記である(旧1Tとは1972年度時点で1年生のTクラスの意。進級すると2Tになった。樋田毅氏も旧1Tであった。)。この記述は平明且つ論理的で、クラス討論を大事にする姿勢に満ちている。この詳細かつ持続的な日記によって私達は当時の状況をリアルに再現することができた。第一級の一次資料と言っていい。

 この2月11日付の総括ノートで重要なのは、行動委と執行部の関係性の問題、団交の大衆性欠如の問題であり的確な指摘である。クラス討論レベルで既にこの時点でこの筆者は認識していた。且つ「学部段階には限度—総長団交へ」との記述もあり、自治会再建と総長団交へと云う亀裂が既にこの時期、ここにも見られる。 団交の大衆性の欠如は、先にも記したが、5月総長団交の際に全学団交実行委員会の学生議長団が、当局から「全学生を代表しているとはいえない 」と言われて団交が流れ、その矛盾のピークを迎える。

最初期の「一文有志の記録」で1972年11月20日のがある。殺害事件後の大学の休講措置が終わり授業が始まった日に、革マル派も午後から文学部キャンパスで集会をもった。それに対して千人以上の学生が取り囲み糾弾し、デモ隊列を作って紛糾した。後述の松井今朝子が参加したデモはこれである。そのデモの中にいたTK氏は以下のように反省している。

 

スクラムを組んでジグザグなんか始める。“Z”(革マル派、野崎註)の集会破壊に向かってしまう。デモ指揮がちょっと判断を誤ったのか意図的にそうしたのかはよく判らないが、“Z”の立て看を引っ繰り返す。この時点でしまったと思う。なんてバカだったんだろう。どうしてあんな軽はずみな行動に移ってしまったのかと思う。強圧的な集会破壊を糾弾したのは我々自身ではなかったのか。ミイラ取りがミイラになるとは……。」(http://www.19721108.net/ 1972年11月20日

 

この時点でTK氏は看板を倒すというちょっとした暴力的行為に反省の弁を記した。TK氏は後に新二年生(1973年4月以降)の二年連絡協議会の中心的活動を担い、最終的にはその武装化議論を深めていく。最初期の1972年11月には革マル派の看板を倒した事を「ミイラ取りがミイラになる」と自省し、1973年2月に「あくまでも大衆性を基盤にした自発的な運動でなければならない。」と日記に記したこの学生が、革マル派の鉄パイプ襲撃が日常化した1973年6月には武装を決意していったのである。

 

2 九原則:第一文学部学生自治会「憲章」

 

九原則は、最初の学生大会の二週間後、1972年12月12日の一文クラス討論連絡協議会で討議され決議されている。のちに学生大会でも承認された。

 

1. セクトの存在は認めるが、セクト主義的ひき回しは一切認めない

2. 革マル派セクト主義に対して、我々は大衆的な運動・団結をもって彼らの論理と組

織を糾弾していくのであり又、そうでしかあり得ない

3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならな

い。我々は具体的な事実、主張の下に初めて批判を行なっていくべきである

4. 意見の違いは大衆的な討論の場で克服していく努力をする

5. 我々の運動の質・形態・思想は常に運動の中から生み出され大衆的に確認していかね

ばならない

6. 我々は個人の、クラスの、サークルの自主的・自立的な闘いを促し、又その場を保障

していく

7. 我々は、我々の自主的活動に対しての一切の介入弾圧を許さない

8. 運動の方向性は常に様々な意識、様々な現実をもつ学生を考慮し、決して一人一人の

人間性を無視してはならない

9. 我々の手で我々の創造的な自治会運動を創り上げる

 

「大衆的な運動・団結」、「大衆的な討論」、「大衆的に確認」、「自主的・自立的な闘い」、「創造的な自治会運動」。ここだけを見ると、全共闘運動・行動委員会の「自立・創意・連合」と同じである。今から見ると未熟な学生用語で満たされた生硬な言葉が並んでいる。大衆と言っても社会全体の事でなく学生仲間のみんなの事だし、自立と言ってもただの親の脛齧りの学生である。その限定性を傍に置いた上で、素直に読んでみれば、この九原則は、セクトの存在自体は否定してないし、個人の創意から出発しており、あらゆる分断と差別に反対している。革マルの暴圧にまだ追い詰められていない段階での希望がまだある。そしてこれは個人の言葉と言うより或る種の共同性を表す言葉である。素朴だが一文学生が承認してくれた学生自治会「憲章」のようなものと言っていい。皆の共同意思が私に書かせたと思う。樋田氏が「クラス討論連絡会議の頃から積み上げてきた」と書いているのは正しい(『彼は早稲田で死んだ』、p115、文庫本130)。これは執行部が私に書けと依頼したものではなく、そろそろこういう確認が必要だと思って自発的に書いて提案し、一言一句そのまま決議されたものである。

 先にも述べたがこの九原則は「早大文学部有志」が書いた『現代の眼』(1973年3月号)の中でも肯定的に評価され、そうした自律的な運動体の形成によってむしろ今後の「学生戦線の新しい段階を切り拓くものとしての重大な任務を担って」いるとまで持ち上げられている。

一方、一文執行部の側でも、1973年4月2日に一文・二文教授会が提示した下記の学生自治会承認条件である「五原則」に対する反論として、「知性とモラルを尽くして作り上げた」九原則をその根拠とした。

 

「教授会五原則

(1) 新執行部が、学生大会決定事項につき、学部投票の方法で、学部自治会員過半数の支持を確認すること。
(2) クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。
(3) 選挙期間・方式等をあらかじめ明示した上での、クラス委員選挙、及び公開の開票。
(4) クラス委員総会において多数の支持をえた執行部の選出。
(5) 執行部による、全自治会員の総意を常時反映しうるような自治会規約案の提示と、その全自治

会員による絶対多数による承認。」(一文・二文教授会の五原則。http://www.19721108.net/ 1973年4月3日)

 

「これに対して一文自治会執行委員会(樋田委員長)は自治会再建『五原則』は誰のためかと題したビラのなかで、学生自治の原則は、その構成員である学生自らが、その自主的な自治活動のなかで創り出し確認していくものであって、教授会が学生自治の原則をうんぬんすることをわれわれは断じて許すことができないと、すでに自治会の原則として知性とモラルを尽くして作り上げた「九原則」を打ち出していると反論した。われわれの創る自治会は、すべての学生の創意による自治活動を保障し、共同の努力によって新たな価値の創造を図り、学生の利益を守る自治会であるとしわれわれは〈九原則〉のうえにしっかりと立ち、学部当局に対して学生の利益を守るために断固闘うことをすべての自治会員のまえに誓うものであると宣言した。」(http://www.19721108.net/,、1973年4月3日)

 また4月21日に行われた一文学生大会の「議案書レジュメ」においても、第10項目目の最後に「九原則堅持」とある。(http://www.19721108.net/1973年4月21日) 更に、5月1日の「執行委員会声明」においても、4月21日の一文学生大会の日に反帝学評が200人の武装部隊を本部キャンパスに登場させ混乱が生じた事に対して、「ここに我々の運動の原則を確認したい。それは九原則におけるセクトの引き回しは一切許さないというものである。」とある。(http://www.19721108.net/1973年4月21日) 

こうしてこの九原則は行動委員会系の旧世代からも広い視野において評価され、新しい世代中心のクラス活動家や執行委員にも自治会再建のよりどころとして深く根付いていた。また既述のように、一文行動委員会は「規約レベルー当局との”交渉”レベルの『正式』な自治会など我々の運動とは無縁だ。」とビラで断言しているが、その日付はこの九原則が一文クラス討論連絡協議会で決議された同じ1972年12月12日である。革マル派自治会をリコールした最初の学生大会のわずか二週間後に、既に一文行動委員会は自治会再建運動にとって桎梏であることを自ら公言していたと言っていい。

3 ぼくらの未知の欲望が明晰さを生む:規約改正委員会設立宣言

「規約改正委員会から  №1. 2‘13。

―ぼくらの未知の欲望が明晰さを生む―エリュアール

 

 11.8川口君虐殺は、特定の政治セクトによって私物化された自治会が、各個人の自由な意思表示はおろか、生命を維持しようとする基本的権利さえ蹂躙することを、ぼくたちに明らかにした。革マル自治会の内実は、ひとりの若者をその青春の真っ只中で、文字どおり粉砕することで、誰の目にも明らかになった。それは、ぼくたちのおたがいに対する無関心と孤立を喰い物にして育った殺人者の自治会であった。いらい数ヶ月、多くの学友の怒りの糾弾のまえに「痛苦に自己批判」した筈の革マルは、その嘘を信じる者が彼ら自身しかいないことを見てとって、日ごとにその暴力的な本質を剥き出しにしてきている。現在、二文において、また社学において、革マルの卑劣な暴力により、殴られ蹴られてからだを壊されていく学友が、日ごとに増えつつある。夜行性の肉食獣のように、彼ら革マルは夜になるとその鋭い爪を剥き出しにして、襲いかかってくる。

 革マルが早稲田に存在するかぎり、多くの学友が日々、また新しく傷ついていくであろう。ぼくたちは彼らを決して許さず、糾弾し続け、その政治セクトとしての息の根を断たなくてはならない。そのことは、ぼくたちが、革マルの策動の余地がないほどに、あつい信頼と連帯とを、おたがいのあいだに打ち樹てることによって、はじめて可能になるのである。 

 この数ヶ月間の闘いを思い起こそう。ぼくたちひとりひとりの怒りが連帯を生み、連帯が力と希望をもたらした。ひとりひとりの主体的な行為が多くの学友の支持によって、どれだけ豊かなものとなっていくか、多くの経験をぼくたちはした。そして共同の努力のもたらした感動のうちに、自治の本質に対する理解が、ぼくたちにやってきたのではないだろうか。各個人の自発性に根拠を置き、自由で豊富な人間関係を確かに、また持続的に組み上げていく努力を通じて、問題意識が(それは心のなかに不安として、痛みとしてある。)交流し、真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。

 規約改正委員会は、各個人の自発性を促し、その創意にみちた連帯を保障するために、新規約を作製することを目的として設置され、またここに召集される。改正委の構成、内容は「細則」にしたがう。」(http://www.19721108.net/、1973年2月13日)

 

 これは1973年2月13日の第一文学部学生自治会総括集会で配布された規約改正委員会の最初のビラにある同委員会設立宣言である。「第一回の委員会は2.14」とある。以後、4月までに24回開催された。一文当局の自治会承認条件をクリアすべく、執行委員会の下で規約改正作業が進んでいた。

「連帯が希望をもたらした。真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていく」としたこの高々とした「学生自治の内実」意識が、革マルの一方的な襲撃による負傷者を出しながらも、あの激動の最中に一文の仲間達には息衝いていた。

 

第三章 自衛武装の諸相

 

1 1973.6.4と云う衝撃とオレンジ・ヘルメット

 

運送車両のガス欠により現場にヘルメットが届かないというアクシデントもあり、この衝突から脱出する際、全学行動委のメンバー数人が塀から転落するなどして負傷した。とくに一文では行動委のリーダー的存在が加療のため入院となり、その後の運動に大きく影響することとなった。

 特筆すべきは、ノンヘルだった団実委と行動委のメンバーの後から現場に着いたクラス単位で活動していたメンバーが、ヘルメットをかぶり、鉄パイプで武装していたこと、また、黒ヘルの他一文の行動委は「LAC」と記したオレンジ色のヘルメットを着用したことだった。」(http://www.19721108.net/、 1973年6月4日)

 1973.5.29の全学行動委(WAC)総会で武闘路線が明確になり、5.30、6.4、6.30と連続して諸党派も入り乱れての、本部キャンパスにおける大規模な部隊同士のぶつかり合いの時期になった。5.30には戦旗派赤ヘルメット)も登場して、反帝学評(青ヘルメット)と連合して革マル部隊を撃退している。そして1973.6.4には反革マル派全学行動委WAC・叛旗・反帝学評と革マル派の双方の人数を合わせると約300人と云う最大級の部隊衝突となる。偶然そこに居合わせた松井今朝子の『師父の遺言』には以下のようにある。これが6月4日に前後して三回起きた衝突の一つ、演劇博物館前の激突である。

 

「早稲田ならではの魅力的な空間は演劇博物館だったが、ある時そこで浄瑠璃本を読んでいたら、外が何やら騒然とし始めた。二階の窓から覗くと玄関前の十字路にそれぞれ赤、白、黒、黄色のヘルメット集団がスクラムを組んで激突寸前という状態である。演博の館員はその瞬間何を思ったか『危険なので閉館します。皆さんは出て下さい』とこちらを追い出しにかかった。私ほか数人が扉の外へ出た途端、ヘルメット集団は堰を切ったように突進して鉄パイプで互いに殴り合いを始め、そこら中で血が流れ出すわ、校舎の窓からは火炎瓶が降ってくるわという惨状の中で私たちはうろたえて逃げ回るはめになった。」(松井今朝子『師父の遺言』pp6869)

 

 この日、革マル派はなぜか白と黒と黄色のヘルメットだった。黒は行動委、黄色は共産党系の民青が着用するもので、何らかの陽動作戦の意味があったのかもしれない。

 この、後から現場に着いたクラス単位で活動していたメンバーが拡大行動委で『LAC』と記したオレンジ色のヘルメットを着用したとある(但しこの日は私はこの部隊には参加していない。)オレンジ色を提案したのは私だった。私自身は個人的にデモ指揮の際など黒ヘルメットをすでに着用していて、後頭部に「11月の黒い薔薇」と白抜きで書いていた。ナチスドイツに抵抗した学生の「白薔薇運動」をヒントにした。それをオレンジ色に塗り替える際は、何か惜しいような気がしたものだ。この日、私は4号館に待機の大衆部隊の指揮と防衛に当たっていた。私は途中で偵察に出て、ヘルメット無しのWAC部隊を6号館付近で見たし、11号館での攻防も見た。最後に大衆部隊を率いて北門から撤収した。

 全学行動委WAC・諸党派は、この5.30、6.4、6.30の本部キャンパスでの昼間の激闘は全て勝ち抜いている。だが、学生会館を拠点とする革マルは24時間体制で部隊を維持した。大学は彼らのロックアウトルールに自ら反して、一貫して革マルの全国動員の精鋭部隊を学生会館から退去させず、それが早稲田解放闘争の武闘期の勝敗を決める。

 この後、一文拡大行動委を超えて私はより広く武装を呼びかける決意をし、2週間後の6月17日に「猫に鈴をとやせネズミ」を書いた。私達の文学部拡大行動委LAC・オレンジ・ヘルメット部隊は7.2の文学部中庭集会までその色を使用した。その後に集まった「やせネズミ」集団はヘルメットをオレンジからグレーヘルメットに変えた。

 

2 自衛武装を巡る論争と7.2二連協中庭武装集会

 

5.17総長団交予定日には、非武装の一文デモ隊約300人が後ろから鉄パイプ部隊に襲われ、多数の負傷者を出した。私がデモ指揮をしていて学友が逃げ去った後に踵を返して逃げた日だ。鉄パイプで後ろからヘルメットや肩を幾度も打たれた。翌18日、反帝学評が文学部中庭・学生会館・3号館前で革マルを襲撃。翌19日、革マル派に阻止されて文学部キャンパスに自治会執行部は入れず、24日、高田馬場駅周辺で情宣中の一文自治会メンバーが革マル派に襲われる。やむなく早慶戦神宮外苑で27日にビラまきとなった。その時に出された一文自治会執行委員会と一文団交実行委員会連名のビラでは暴力について正面から論じている。

 

「18日の革マルと反帝学評との衝突について次のような「追記」がされている。『5月18日の事態について。まず基本的に我々とは関係のないこと、そして我々の運動の原則とは逸脱していることを確認しよう。勿論我々は革マルに対して一文のキャンパスを暴力的に制圧されているという現状を踏まえるならば、自らの運動は自らで守り抜く、一人に対するテロは全員に対するテロと見なすという立場から、最低限自らの命を守るため、革マルの情宣集会を一切許さないという立場から、大衆的な暴力的な反撃を展開する必要があることは言うまでもない。僕たちは一般的に暴力を否定しない。軽々しく暴力追放などという遠ぼえなど言わない。今、暴力は復権されなければならない。強いられた存在の一つの行動様式として、暴力=肉体性の発現はあるのだから、そういう行為は、共同性の一形態であるだろう。』この意味するところは、執行部主体の活動における暴力(編註:武装よる自衛、あるいは革マルに対する反撃)は、運動を推進するためには必要であるとする意志の表明であった。」(http://www.19721108.net/、1973519

 

 これが自衛武装と云う概念が一文執行部から出てくる最初の日、1973年5月27日である。このビラの上記二重カッコの文言は、ビラの残った余白に私が「追記」として書いた。「自衛暴力は共同性の一形態、肉体性の発現」と一歩踏み込んでいる。吉本隆明を好んで読んでいたその頃の私の文体である。後述のように、この三週間後に私ははっきりと、一文大衆部隊として鉄パイプで武装決意する文章を会議で配布した。この神宮外苑ビラまき以降、このビラを書いたM氏と私は意思一致して手分けして一文武装要員のリクルートに入った。これが事実上のX団の萌芽であり、6月17日の初会合はそれによって成立した。

1973年4月から学内外において革マル派からの学生自治会執行部への個別テロが全面的に始まった。5月14日には樋田委員長が重傷を負っている。私の居住先の入り口にも革マル派からの脅迫が書かれた。そして6月に本部キャンパスで部隊同士の武力衝突が始まった。それを受けて、6月13日の全学集会『負けるな早稲田・大集会』において、二文臨時執行部・教育学部執行部から「自衛武装」の問題提起があった。

「集会の模様を詳しく残しているのは早稲田キャンパス新聞179号で、サブタイトルに『自衛武装問題、路線分岐鮮明に』とあり、リードにも『集会での発言内容は、自衛武装の必要性を、行動委のみならず自治会執行部が強調したこと、民青系との路線分岐が鮮明になったことが注目される』とある。」(http://www.19721108.net/、 1973年6月13日豊島公会堂で「負けるな早稲田大集会」)

 

 続いて一文でも自発的な新二年生の集まりである「一文二年連絡協議会(二連協」において、緩やかな「自衛武装」が1973年6月25日に討論され、下記の決定を行った。

「自主的運動を保障するための手段として武装を位置づける。武装の行使については、各自の独自性は認めるものの組織的に決定していくこと、テロ・リンチはせず大衆の目前での公然たる暴力であること、目的が確認された暴力であること等の定義が検討された。」(http://www.19721108.net/、1973年6月25日

 一文執行委員会でもこれは延々と議論され、平行線のまま結論は出なかった。そして二連協は1973年7月2日に最初の竹竿とヘルメットだけの自衛武装集会を文学部中庭で行った。一文拡大行動委の私たちはオレンジ・ヘルメットで参加した。この日は革マル派は朝から意表を突かれたのか、6.30まで連続して3回撃破されて動員部隊がいなかったのか、全く反撃はなかった。

「7月2日午前9時頃、一文二年生連絡協議会(二連協)を中心とする一文学生約25名とそれを支援する全学行動委(WAC)約30名が、7月5日の学生大会のための情宣として文学部キャンパスに登場し、スロープ上などにバリケードを築き、黒・オレンジなどのヘルメット、旗ざお、鉄パイプ(WAC、野崎註)で武装し、学内デモをおこなって気勢をあげた。登校した学生で1年生を中心とした40名余りが中庭での集会に加わり、多くの学生が集会を取り巻く中で一文の2年生が次々にマイクを持ち、武装登場の理解を求め、7月5日の一文学生大会への参加を呼びかけた。この間に一文の部隊は40名程にふくれあがり、中庭での武装デモを繰り返したあと、12時頃隊列を解いて理工学部方面へ引き上げようとした。しかし文学部正門付近に待機していた機動隊が一文の部隊を取り巻いて規制し、外濠公園まで連行した。」(http://www.19721108.net/197372

 

 「この日の武装登場をキャンパス新聞は次のように評価した。

『二連協を中心とするクラス活動家が11.8以降初めて公然と旗ざお、鉄パイプで武装し(WAC、野崎註)、党派の支援なしに武装情宣を独自で貫徹した点で、小規模ながらも質的には画期的な意味があったと考えられる。』」(http://www.19721108.net/1973年7月2日)

 

 「一文有志の記録」には2日の総括として、次のようなコメントが記されている。

 

「ほぼ達成。文キャンを120~130(人)で制圧できれば、40、50(人)のZ(革マル派、野崎註)では敵対できない。大衆の渦で埋め尽くすということには限界。Zは全国部隊の時しか展開できない。」(http://www.19721108.net/197372

 この1972.7.2文学部中庭集会は、自治会一般学生が合議によって「竹竿・角材とヘルメットで武装した」全学において最初の集会である。

3 「X団」の誕生と展開:7.13二連協・X団中庭武装集会

 

「そもそもWACの前身は、政経学部のPAC、文学部のLAC、教育学部EAC、法学部のJACなど各学部に作られた行動委で、それを統合したのが早大行動委WACである。その主な構成員は、在校生および二次闘争(1969年全共闘運動、野崎註)からの復帰組で、革マルによる攻撃に対抗する防衛を役割とした。ことに4月以降、個人攻撃も含め過激になった革マル武装攻撃に対して、情宣、学大などで登場する際には、行動委に周囲を守られないと執行部は一文キャンパスに足を踏み入れることもかなわなくなった。まだ1月の段階ではヘルメットの着用をめぐる意見の食い違いもあったが、鉄パイプによる攻撃が日常化するに及んで、ほとんど議論の余地はなくなった。さらに、二次闘争の世代にとって武装は既成事実であり、そこへ背後の党派の支援が加わるとなれば、さらに本格化、先鋭化が進むことは必然だった。

そうした旧世代の影響の色濃い武装闘争へ傾斜していく一方で、独自の防衛部隊を作る動きもあった。執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団で、独自の武装訓練等を行い、一文キャンパスへの復帰を果たすことを目論んで活動した。

     (http://www.19721108.net/、1973年5月29日)

 

この「執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団」がX団である。その執行委員は私で、武装を決意して呼びかけた文章が残っている。「猫に鈴をとやせネズミ」とやや諧謔的である。

 

「猫に鈴をとやせネズミ :書いた人・俺(一文、執行委員):書いた日・1973.6.17

<何故武装か>

 個体としての己の生を誰も代行的に他人に生きてもらうことがありえないように、個体としての己の意思・思想・感性の表現を己のこととして貫き、決して疎外させ代行させることなく、自らの言葉を以って語っていく、——これが最低限の原則ではないのか。とすれば、己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。

 己のことばを表現を己から疎外させ誰かに代行させてはならない。同じ意味で、己の自衛権ゲヴァルトを己の肉体から疎外させ誰かに代行させてはならない。セクト主義的引き廻しを許さないと言う観点から言っても、種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にするであろう。」

                 (http://www.19721108.net/、1973年7月2日)

 

 執行委員会での果てしない自衛武装是非論議は皆も承知で、徐々に自衛に傾いていた。私は、行動委・団実委への2月以来の批判は変わらないが、その総長拉致と革マルの本格的武装攻撃によって、事態がここまで危機的になったので、もはや最後の自衛武装によって運動と仲間を守る以外にないと呼びかけた。その必要を感じていた二連協の学友は1973.7.2、竹竿武装中庭集会を計画し、それが成功したので7.13中庭集会へと進んだのである。全学行動委(WAC)や全学団交実行委が総長団交を拒否され、6月期の全面的武力衝突を経て拡散・分解していく最中に、クラス活動家レベルの私達は逆に自衛武装を決意していくのだった。

 

「川口君の虐殺事件を機に、『反暴力』を掲げてこれまで一緒に闘ってきた同じ二年生の仲間たちが、防衛のためとはいえ、『武装』することを決めたのだ。療養中だった私は、その経緯を後になって知り、激しいショックを受けた。」(樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、p148、166

 

樋田氏はその本の中で自衛武装論争と、7.2集会、7.13集会に多くのページを割いている。ここが彼にとっても自治会再建運動にとっても大きな岐路であったのは間違いないだろう。

 7.2中庭集会の後、竹竿だけでは対抗できないので、それから私達は三段組み鉄パイプの試作に入り、10人分まで用意できた。工事現場から、長い鉄パイプを何本か拝借し、夜中に工具で製作した。その数に規定されて私が指揮した7.13の中庭集会での非公然遊撃部隊は10人にとどまったこの段階で私達はWAC(全学行動委員会)やLAC(一文行動委員会)とは分離し、賛同した皆と相談してヘルメットの色をグレーにした。黒(WAC)でも白(革マル)でもないのである。これが鉄パイプで武装した早大第一文学部武装遊撃隊X団の誕生である。正式名称はなく、それゆえに「X」または「X団」とだけ呼んでいた。

 「X団を構成したのは旧1年生と旧2年生の8クラスの有志と執行委員1名の20名ほどだった。合議制をとる連絡協議会の即時性の弱さ、党派の競り合いの場となった行動委員会の限界を越え、自衛武装を肯定的にとらえて現状を打破しようとする有志の集まりだった。全員が鉄パイプを握ることを肯定(決意)していた訳ではなく、サポートに徹しようとした者も含まれていたし、途中で活動を中止した者もいた。

  X団初の対外活動がこの日13日だった。二連協の集会を潰しに来る革マルの襲撃に備え、鉄パイプを握って体育局に潜んでいた。結局革マルの優勢に出番はなく、退却せざるを得なかった。また、X団とは別のグループが、袋に入れた自らの糞尿を革マルに投げつける作戦を実行した。これは、成田紛争で使われていた糞爆弾になぞらえたものだった。」

詳しくは「L*の登場、L*=X団、X団の動き、X団の夏休み合宿」と一文アーカイブにある。)              (http://www.19721108.net/1973年7月13日)

 

 しかし革マル派は7.2集会を許した反省からか、7.13には約150名、大学側の資料では約200名の全国精鋭部隊を投入した。7.2は文学部中庭を解放して登場するのが主なる目的だった。7.13は試験粉砕の団交が目的で、実際にも岩波教授に中庭まで出ていただいて説得した。自衛武装に反対の樋田委員長らと民青系の学友は「集会を見守る」という位置付けで、集会の周辺に佇んでいた。詳しくは樋田氏の本にあるが、しかしグレーヘルメット部隊10名がミルクホールのある31号館を背に正門に向かって一列横隊になり、正門前の叛旗派革マル派の鉄パイプ戦闘に介入寸前だった事は、バリケードで塞がれたスロープ脇の階段下の死角でもあってほぼ誰にも気づかれていない。当時は今のスロープ脇の樹木や細長い建物やアリーナは無く、記念堂前のスロープ横は正門から31号館まで野球場くらいのガランとした広場だった。

 偵察班が「来たぞー」と駆け寄って報告、私たちは潜伏の地下から這い出した。革マル派はボストンバッグを正門の外から次々と投げ込み、別働本隊が正門内でそれを開けて三段組み鉄パイプを組み立て、前面では腕に甲を付けた鉄パイプなしの防衛部隊が叛旗派を防いでいた。やがてカーンカーンと甲高い鉄パイプ同士の激突音がスロープ下で鳴り響いた。私たちが這い出した体育局地下のその窓は小さく、一人一人時間がかかり、全員が横隊になって私が号令をかけようとした瞬間、叛旗派は敗走して革マル部隊がスロープを駆け上がってしまった。私達は中庭での惨状を予期しながら、無念の撤退をした。撤退途中で私は右足首を捻挫した。ただし、X団の別動女性部隊「ウンコ軍団」はスロープを突撃して上がってくる革マル精鋭部隊約50名に対して、用意していたビニール袋のウンコ爆弾を2階の窓から雨霰と投げつけた。命中したのであろう、彼女らは女子トイレまで追われてそのドアーを鉄パイプでボロボロにされる恐怖を味わった。鉄パイプは重くて振れないからやれる事をやるとした女性部隊「ウンコ軍団」も私達の同一作戦上にあった。一文の一般学生男女の20数名の「X団」と60数名の二連協は、正門・裏山・プール脇の三方から突入してきた一個中隊の革マル精鋭鉄パイプ部隊にあっけなく敗北はしたが、あの暴圧に立ち向かい己の言葉と意思と思いは捨ててない。

 当日のX団レポセンターの記録には以下のようにある。正門前の叛旗派革マル派の激闘はわずか5分間である。研究棟前では裏山から突入した革マル派と叛旗派本隊がほぼ同時にゲバルトを開始している。

 

「レポによれば、集会の聴衆は着席50~60人、立ち見50~80人。叛旗他の部隊は見えなかった。また、スロープ脇の階段は塞がれ、スロープは2人が通れるほどに狭められており、革マルの動きは不明だった。

pm3:32 革マル100人正門前。スロープ下で叛旗迎撃。

pm3:35 研究棟の下でゲバルト。

pm3:37 スロープ上に革マル100人以上。救対(救急箱を抱えた女子学生による負傷者の救護部隊、野崎註)動員。

pm3:45 X団の10人無事。叛旗壊滅(重傷者8名、野崎註)。

http://www.19721108.net/、1973年7月13日(金)当局の試験強行に対し二連協が試験粉砕中庭集会、革マルの襲撃でちりぢりに)

 

 この1973.7.13文学部中庭集会は、一文自治会一般学生が合議によって「竹竿・角材・ヘルメット・鉄パイプ・ウンコ爆弾」で武装した全学において最初の集会であり、且つ学生による学内集会として最後のものである。

 樋田氏が中庭にいた一人の学友に取材している。

 

「『防衛隊』にいた二連協メンバーの一人で二年K組の岡本厚君はヘルメットと竹竿を投げ捨て、校舎の階段を駆け上がり、三階の空き教室に逃げ込んだ。クラスの仲間たち10人ほども行動を共にし、内側から机でバリケードを作って隠れた。(中略)岡本君は大学を一年遅れで卒業後、岩波書店に入社し、2021年3月まで社長を務めた。当時を振り返り、こう話した。『早稲田ではクラスの話し合いから全ては始まった。最後は、ヘルメットと角材で武装というところまで行き着いたけれど、結果的には、誰も殴らなかったし、実は殴れなかった。今にして思えば、誰も傷つけずに済んでよかったとつくづく思う。」(樋田毅『彼は早稲田で死んだ』、pp155〜156文庫本p175

 

 諸党派と前世代の全共闘運動の生き残り自治会再建運動を凌駕して、状況をここまで混乱させキャンパスを戦場と化した。だが皮肉な事に、全共闘運動の「自立・創意・連合」と云う核心を引き継ぎ、全学的後退局面で最も果敢に状況を引き受け、脆弱ながら最後まで組織的に抵抗したのは、この第一文学部の一般学生約80名であった。叛旗派吉本隆明の思想的影響下にあった政治党派で、行動規範は文学的原理に近い。)約20名が支援。全学行動委員会WACは支援参加する予定だったが当日になって来なかった。非公然鉄パイプ戦闘部隊10名、その後方支援:レポ部隊5名(携帯電話のない時代、偵察員は公衆電話に駆け込んでレポセンターに連絡した)、レポセンター2名(電話のある仲間の一人の下宿を拠点として部とした)、救対2名、そして別動女性部隊5名の「X団」、公然竹竿部隊約20名、公然集会約40名の「二連協」。この”ICHIBUN 80”の物語を知る者は少ない。

 X団の武闘訓練は、お茶の水明治大学構内、日大文理学部キャンパスなどで行った。明大全共闘・日大全共闘の生き残りによる部隊訓練だった。また、その基礎訓練として信濃忍拳を三多摩の或る小学校体育館で毎週夜間行い、夏休みには静岡県伊豆市辺りの山村で信濃忍拳の合宿に参加した。この夜間訓練や夏休み合宿には「うんこ軍団」の女性たちも参加した。女性たちは腕などにアザができ、アザミという名の女性指導員に対して「このアザを見い!」などと冗談を言い合っていた。体育館での夜間訓練で評論家・劇作家の菅孝行と一緒に練習したのを覚えている。また、X団で夏合宿を河口湖で行い、秋以降の方針論議を行った。

 全学行動委員会WAC部隊が6月の革マルとの激突に勝利したものの、運動の位置付けを失い拡散した後、その無党派の一部が11月の図書館闘争の準備に入っていた夏に、X団はまだ闘うつもりで自衛武装の訓練と合宿を行っていた。

 

4 構造的暴力論:X団の終焉

 

早い段階の1973年1月17日に文学部キャンパスにおいて自治委員選挙を巡って革マル派と二度にわたる衝突があった。それを受けて「暴力への視座」と云う自省のビラが残っている。「戦術上の必要最小限の自制された暴力」は使うとある。怒りを止揚し思想で自己絶対化しない暴力であると。

 

「我々は一貫して戦術上我々の方針を貫徹するのに必要最小限の暴力を使ってきたのであり、文学部に我々が入るのを阻止しようとした革マルに対しても、文学部内に統一選挙場を獲得するという目的に合致しないといって、個人レベルでの革マルとの殴り合いは避けてきた。これは我々の目的意識をもった最小限の暴力という原則を貫いたものであり、宗教的な非暴力ではないし、個人的な怒りを即、物理力としての暴力に結びつけるという革マル派諸君がどっぷりと浸った安易な発想(敵に対して何を行なっても良い) とは無縁のものであった。満身の怒りを持ちつつ、それを個人の怒りから止揚し、目的意識を明確にして行使された暴力であった。我々は一貫して思想の違いを認めつつ運動してきたのであり、革マルに対しても戦術上の暴力以上の暴力、つまり革マルだから殴るなどというようなことはありえず、大衆の面前(決して密室などではなく)における自己批判以外は行なわない。もしこの原則を貫ければ我々は川口君を虐殺した革マルの『思想の異なる人間に対して自己又は自己の党派を絶対化した上で罰する』という発想法を乗りこえられるだろう。もしそうでないなら単なる腕力の強弱に終ってしまうだろう。」(http://www.19721108.net/ 1973年1月17日。「暴力への視座」と云うビラは1月18日の所に掲載。)

 

 この段階では革マル派の角材と投石に対して私達は素手で立ち向かっている。1973年1月8日、冬休み明けの初日に一文行動委他約100は初めて黒ヘルメットを着用して「端緒的な自衛武装を開始した」としたが、この日も彼らは黒ヘルメットを着用した。上記の自己規制した暴力論はやや拡大されて6月段階の二連協の自制した武装論に繋がっている。ここでは自らの暴力性や武装についての内面的な倫理規範が模索されていると言えよう。最も拡散された形での「暴力反対」とは質的に異なる内省がそこにある。

素手で角材や投石と闘う中で多数の負傷者を出しながら、私達は否応もなく「反暴力」が手段でも獲得目標でもない地平に立ち至った。1973年1月13日に自治委員選挙を開始した際、私達は文学部キャンパスのスロープ上で革マル派を実力で突破して、裏山手前にあった木造校舎を占拠して、選挙の場を確保したが、人数が多かったから可能であった訳で、明らかに私達もその意味では自制的であれ実力行使で「暴力」を使っている。革マル派はそれを総括して17日には角材や投石用の石を用意し、屋上から机すら投げ落とそうとしたのである。「暴力反対」と言うだけでは、日々進行するこの状況の深刻さは止められない。

 では何が深刻化したのか。それは目に見える「現象的暴力」ではなく「構造的暴力」の水準であろう。

 

 「川口君の事件が起きる前年の71年7月、本部キャンパスで民青系の学生たちがヘルメットと角材による武装集会を開き、その後、革マル派武装部隊と衝突し、双方に負傷者が出た。第一文学部の民青のリーダーだったKさんは『私も一度だけ武装訓練に参加した。中隊長や小隊長を決め、法学部の民青幹部が『ここでは軍隊式に動いてもらう』と訓示していた』と当時を振り返った。(中略)Yさん(註、法学部自治会の70年〜71年の執行委員長)は、(中略)『武装したことで、一般の学生から他のセクトと同一視されるようになった。一方で、文学部キャンパスは革マル派に暴力支配されたままで、彼らに暴力の新たな口実を与えた。』」(樋田毅「左翼的な気分は何処へ」『文藝春秋』(2022年8月号, p166)

 

 革マル派と民青派が学内で長く対立していて緊張関係にあった。その政治的対立に武器が持ち込まれて衝突すると、政治的対立のレベルが上がる。政治的対立がもたらす実践的対峙の緊迫度と云う「構造的暴力」のレベルが「新たな口実を与えた」ことで上がったのである。民青部隊に中隊長まで居たと云うことは150人から200人の大部隊である。これは以下の第二次早大闘争における反戦連合・全共闘派と革マル派の陰惨なテロ・リンチの応酬でもそうだった。

 

 「1969年の5月19日に第一文学部の学生大会が開催された。(中略)しかし、不信任案が可決されそうな寸前に革マル派反戦連合や他大学の学生との暴力的な衝突が起きてしまい、革マル派執行部の解任案は学生大会で可決されることはなかった。学生大会が休憩に入ったときに、一部の学生たちが、革マル派の挑発に乗って、文学部の自治会室にいた革マル派を暴力的に襲ったのである。自治会室に立て篭もった革マル派を、数十人が竹竿で突きまわしたり、火炎瓶が投げ込まれたりした。(中略)攻撃に加わった学生たちは、何人かの革マル派学生を文学部の裏側から連れ出し、すこし離れた場所にある理工学部に連れていき自己批判を迫った。(中略)殴る蹴るの暴行が革マル派学生に加えられた。(中略)当時四年生のK氏は『(中略)あの日あの時、執行部を不信任できていれば、1972年の川口大三郎君の悲劇だけでなく、革マル派の強権的な自治会支配という流れを防ぐ事ができたのではないかと、今でも思っている』と当時の暴力事件を止められなかった悔いの思いを語っている。(中略)そして、後日、この日の暴力事件の仕返しとして、本部を封鎖中の反戦連合のメンバーに対して、革マル派は夜中に就寝中のメンバーを襲い、凄惨なリンチを行ったのであった。」(田島和夫『川口君虐殺糾弾、早稲田解放、あの日から五十年、死んでも忘れるものか』(非売品、2022年11月4日、p13)

 

 この陰惨なテロ・リンチの前史と一年前の1971年7月の共産党・民青系武装部隊と革マル派武装部隊の衝突が、1972年11月8日段階の「構造的暴力」のレベルを規定していたと言えよう。先に革マル派をテロ・リンチで襲ったのは全共闘派である。それが逆に革マル派自治会を温存させた。K氏も言うように、不信任案が通過していれば革マル派自治会も第一文学部にはなかったかもしれない。全共闘派の暴発が川口君事件の遠因とも言えるのである。民青も暴力反対などと言う資格はないだろう。1973年1月13日の自治委員選挙で素手で私達に対応して追い散らされた革マル派は、数日後にはすぐに角材や石を用意した。「構造的暴力」のレベルを上げて来たのである。

夏休みが明けた頃、1973年9月になって、革マル派は都内各地で他党派や全学行動委(WAC)を連続的に襲撃した。その一つ、9月15日には、神奈川大学の反帝学評を襲撃した革マル派はかえって二名の死者を出した。これらを受けて早稲田大学は後期最初の日から「学外の党派闘争」を理由にロックアウトした。自治会再建運動が完全に学外状況に支配された日である。もはや学内の学生自治会再建運動の論理と希望は名実ともに党派と大学当局によって圧殺された。その理由は構造的暴力のレベルが上がったからに他ならない。死者二名を出した革マル派は、それ以降、党派であれ私達のようなノンセクトノンポリであれ、同レベルの構造的暴力で対応して来るのは目に見えている。ここに、全学の自治会再建運動は行き詰まって失速し、同時に夏休み中も武闘訓練に明け暮れていたX団のその防衛任務も消失した。この段階で”X団”は終わった。

 1969年以降、諸党派による各大学の自治会争奪戦が激しくなり、徐々に武闘を伴うようになった。その度に構造的暴力のレベルは上昇し、テロやリンチによる排除が日常風景にまでなっていた。その中で川口君虐殺は起き、自治会再建運動もテンションが最大級に上がった構造的暴力の最中に投げ込まれた。諸党派の武力介入はその度合いを更に上昇させ、自治会再建運動は風前の灯火と言って良く、結果的にあっと言う間にかき消された。

 政経学部教授会の告示に暴力に言及したものがある。これは1973年4月21日の一文学生大会の日に革マル派が学生大会会場を襲撃し攻防戦になった事、また社青同解放派反帝学評の200人の部隊が本部キャンパスに登場した事をもって「騒乱と暴力行為」とした24日の告示である。

 

「まず、暴力追放運動のことである。事件の責任を自認した革マル派が、相かわらずゲバ棒を振う集団行動を続けたことは言うまでもなく悪い。けれども、暴力に報いるに暴力をもってするのは、自家撞着であろう。だから、これに対抗して立上った学生諸君のなかに、自分たちのほうから暴力をしかける武装集団が生まれたのも、遺憾至極であった。どんなに正当な理由があるにしても、静穏であるべき学内に暴力をもちこむことは、主張がどうあろうと絶対に許されるべきことではない。(中略)それなら大学は、この状態をなくすためになにをしたか、そのつど告示を出して、集団の暴力行為を非難するだけだったではないか、と問う者がいる。だが大学に、これ以上のなにができたであろうか。大学は暴力に対して無力であり、無力であることに誇りを感じている」

http://www.19721108.net/1973年4月24日)

 

これは目に見える現象的暴力を非難してはいても、大学と云う機構そのものが内部にカルト的な武装集団・革マル派を抱えそこへ巨額の自治会費を渡し、一体となって構造的暴力の根幹を成していた事に無自覚な言説である。 「大学は暴力に対して無力であり、無力であることに誇りを感じている。」との開き直りは、覆いようもない政治的知性の崩落であり「学の独立」のかけらもない。

 警察に保護された革マル派の圧倒的な武力制圧を前に早稲田解放闘争雲散霧消した。そこには自治会再建も大学に対する責任追及もはるかに凌駕した何らかの意図、互いに争わせて左翼・新左翼を潰すと云う意図が背景にあったと思われる。大学そのものも自治会承認するかどうかという各学部教授会の真剣な取と、本部当局のそうした公安警察への協力と云う二重性を孕んでいた

 

 樋田氏の暴力反対論は政治的弾圧場面における暴力への認識が甘く言葉の使い方が未分化である。彼自身、1973.6.25に多数の学友に伴われて集団登校をやって革マル派の殴る蹴るの集団暴行に遭った。だが何とか学友の人数で守られてキャンパスから脱出した。(『彼は早稲田で死んだ』、p149、文庫本p167それは非武装だが多数の学友の自衛的実力行使(弾圧や威圧の暴力ではないが自衛暴力)あり合法的な行動である。もし絶対的な非暴力を唱え武装自衛暴力をも否定するならば集団登校も不可であり革マル派弾圧的武力行使を始めた19731月段階で運動を停止しなければならないしかし私達は1972年11月から1973年3月にかけては、自然発生的に多数の学生の力で非武装自衛暴力を使って集会や会議を防衛して来た。革マル派の非武装ピケを何度も実力で突破した。顔を殴ったりはしなかったが、人数の力で押し返した。その為に各クラスから行動委員会まで組織した。樋田氏の主張を言い換えれば集団登校と云う「自衛」手段用いその数を頼んだ武装自衛暴力容認しいる。それをガンジーなどの「非暴力主義に重ねている

 

「私が早稲田で考え続けてきたのは、暴力に対して暴力で対抗するのではなく、非暴力で立ち向かうことでした。非暴力の抵抗運動で、インドのガンディーが独立を勝ち取り、アメリカのキング牧師が人種差別と闘い、公民権法を成立させたように」文庫本のためのあとがき、p312

 

しかしガンジーは非武装の自衛暴力も否定した。大行進の際、一列に並んで順番に警官の警棒に打たれる為に人々は進んだ。それは抵抗権を証明するためだった。樋田革マル派権力側の弾圧的暴力と人権として正当な抵抗権としての自衛行為の区別ができず、正当防衛権の存在そのものを覆い隠している。権力側から歴史上繰り返し押し付けられて来た抑圧的イデオロギーである。もしそれを主張したいならば、それで運動が勝利した暁に言うべきである。理不尽な革マル派暴力に何もせず、多くの学生達の身体的負傷や心の傷を無駄にした。出版記念会の席上で「あなたが武装に反対したから、早大闘争は敗北した。今からでも遅くないから謝ってくれ」と学友の一人から詰め寄られたそうだが(映画プレスリリース・パンフ、p17)、その思いには一理ある。そう言った学友はX団の組織化を始めたもう一人Mだと思うが、彼に対して「武闘派のまま生きた者」というラベルを貼っている(同上)そう云うラベル貼り自体が正当防衛権を否定する権力側の論理だと気がつくべきである。

武装自衛暴力までは樋田氏も容認しており、本当の対立は武装自衛するかそのまま武装自衛で行くかだったのだ。現に1973年5月2文学部団交は500人もの数の力による武装自衛で革マル派を突破し成功した。しかし数日後には革マル派は角材や鉄パイプで武装して57日の文学部正門前の乱闘事件を引き起こし、次の団交を阻止した。

この時点でこちらも武装するかどうかの試練は始まっていた。仮にその翌日の58日の全学団交実行委員会による総長拉致事件がなかったとしよう。一文自治会として次に文学部へ登場する際に、武装して行くか武装しないかの大議論になったはずだ。残念ながら翌日の総長拉致事件後の大混乱でそういう大事な議論をする機会を奪われた。例えば、1000人の学生大部隊の非武装集団登校で文学部キャンパスに自治会執行部が入り団交を行うという戦術は、この時こそ実行されるべき好機であった。それを200人の革マル派鉄パイプ部隊が襲えるか。仮に襲ったら更に大事件となり世論が味方になっただろう。歴史に「仮に」はない。だが、こうした好機すら私達は全学行動委員会や団交実行委員会の「軽いノリ」(後述の身勝手な独走=総長拉致団交事件で奪われたのは確かだ

そして民青系諸君革マル派の弾圧的暴力と一般学生の正当防衛的実力行使を同一に見做し、ラディカルな学生が暴力に走ったと批判した上で、自衛武装は反革マル諸党派の武装介入に追随し、自治会の自律性を喪失するかのような批判を展開した。しかし、それは私の武装宣言「猫に鈴をとやせネズミ」で、「種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にする」と当初から明快に否定している。これをベースにX団は結成されており、ヘルメットをグレーに決めた時にそれをはっきりと示した。私が書いた一文学生自治会憲章「九原則」では、一言で言えば自律しか書いてない。非暴力と書いてない。自律が侵されそうな局面で自衛的実力行使を一文学生は幾度も行った。更に必要に迫られれば自衛武装的実力行使に及ぶのは自然であろう。自分の人権は自分で守るしかな一人一人がそう思えば大きな力になる。

 

革マルの組織をあげた反撃・学校当局との闘いをも組織しての自治会再建への闘いの中で、新自治会の防衛を全学友のクラスの団結中に一般化してしまうことは、闘いの困難さと緊急さに対して余りにも無知であり、無責任であり、無力であると云わねばならない。」

 

冒頭に引用した一文日本史3年行動委員会準備会の最初のビラにはこうあった。結局この予言は当たっていた。新自治会の防衛を非暴力主義で「クラスの団結中に一般化」しようとしたのは、無知で無責任で無力であった。しかし、新自治会の防衛を自衛武装で試みたX団と二連協の”ICHIBUN 80”も、確かに無知で無力であったが、確な敗北の痛みだけは手元に残った。

 

第四章 敗北への道程と自治会再建の可能性

 

1 総長拉致団交:全学団交実行委員会の敗北

 

「川口君リンチ殺人事件から半年目に当たる8日、早大で反革マルの各学部行動委員会のメンバーが講義中の村井総長を連行して開いた“全学総長団交”は、本部8号館301教室に学生約1500人を集めて続けられたが、同午後6時前、村井総長が『17日に全学再団交を開く』と文書で確約したため、約6時間で終った。」(朝日新聞5月9日朝刊、http://www.19721108.net/1973年5月8日)

 

新年度になって、自治会再建運動は新たな段階を迎えた。入学式をめぐる位置付けの違いが新執行部と行動委の間で顕になった。同時に1973年4月4日本部教室での会議中に、4月10日代々木駅頭でと、革マル派の個別的テロが一文執行部を標的に始まった。4月21日、一文学生大会成功。5月2日、文学部181大教室で学生500人が集まり、革マル派20人の妨害にもかかわらず教授会との団交成立。しかし5月7日、再度の一文団交が革マル派の角材と鉄パイプの襲撃で中止になった。この日は、スロープ下で一文執行部・一文行動委も角材で応戦すると云う武器を持った100人規模の集団戦に初めて突入、そこへ革マル派の増援鉄パイプ部隊が襲撃して来てバラバラにされ、大学はロックアウトを宣言して団交は流れた。革マル派は何としても新執行部の承認はさせない方針だった。 

新入生を迎えた新年度の大きな目標は、所定の手続きで新入生を含めたクラス自治委員を選出し、そこから新執行部を再度選出、それを大学側に認めさせる事が第一の課題であった。一文教授会も革マル派の学生大会には教室を貸さず新執行部を支援、4月9日には「高く評価する」とまで告示で表明していた。他学部でもそれぞれ前進しつつあり、二文学生大会成立後、その足で高田馬場駅までの数キロメートルを、500人で早稲田通りを行進すると云う、前代未聞の無届け「フランス・デモ(両手を広げて手をつなぎ道路を埋め尽くす)」を成功させたりしていた。

 そこへ晴天の霹靂のように起きたのが、全学行動委員会(WAC)・全学団交実行委員会(準)による総長拉致団交であった。これは全学的な大論争、即ち総長が文書で確約した5月17日の全学総長団交を是とするか非とするかの論争を巻き起こした。それは、こうした拉致と言う違法的手法を是認するかどうか、実際問題として17日の再団交に参加するかどうかが焦点だった。

 一文執行委員会でも行動委系の委員とその他の委員の間で激論になった。また各クラス討論でも種々の意見が出され紛糾した。その中で、最も正確にこの論争を書き残したクラスビラが残っている。

 

「5.8団交に関して。一致点:執行部の下に位置付けられている特別委員会である一文団実委が自治会執行部の確認なしに勝手な行動をした事は、当然批判されなければならない。この一致点は一文団実委が行動原則を逸脱した事に対する批判であるが、その結果ーつまり村井が確約したことーに対する評価は別れてくる。『各学部執行部は一貫して総長団交を要求したのにそれには何ら答えることなく、全学団実委なる実体のない私的機関に確約するとは、明らかに自治会無視、学生団結に対する分断策動である。』、『確かに当局にそういう狙いがあったかもしれない。しかし、実際、総長が出てくることを約束させたことは成果である。それも積極的に利用すべきである。この機会をとりにがすと次にそういう機会を望むことはむずかしい。』、『近視眼的に見れば、それも云えるが、自治会再建、存立を展望すれば、そして東大闘争の教訓、つまり何ら学生の意志を反映していない全共闘の”団交"に応じようとした加藤総長代行は最終的に代議員選出による正式団交代表団に応じざるを得なかったことを見るならば、全学の自治会が一致して議長団を追求すべきだ。』」(1文哲学4年、クラ討報告。http://www.19721108.net/1973年5月8日)

 

私も信頼する友人達がいたこの哲学4年クラスの討論は見事と言うほかない。創意ある自治会建設の途上で降ってわいて来たようなこの総長団交事案に対して、ここまで議論を掘り下げている。そして5.17団交については意見は三つに別れたと、以下のように明晰に判断しているのである。

 

「1 総長が確約した相手は全学団実委(準)という実体のないものである以上、自治会が無条件で参加することは無原則的である。独自に全学と協議して団交を追求すべきだ。自分も5.17に参加しない。:5人。2 それでも行動委に主導権をとられないために参加すべきだ。:3人。3 条件は彼らが執行部を認めている以上、拒否することはあり得ない。:1人。」(同上)

 

これに対して、「一文執行委員会(有志)と一文団交実行委員会」名義のビラは以下のようにあった。

 

「5.17総長団交こそは、我々の闘いに決定的な飛躍をもたらすであろう」として、一文での態勢固めのためを目的として実行委員会を結成するとしている。それはまた「停滞を打破し一層の大衆化への契機となる」ことであり「闘いを閉鎖化する傾向=闘いの代行化を取り除く」ことであるとしている。実行委員会の実効性については、自治会執行委員会とクラスから選出された自治委員会による組織は代行化の弊害を生むことから、「最大限広汎な学友によって担われる実行委という大衆的共闘機関の創出こそが最も強力」だとしている。さらにこうした大衆機関は、困難な状況下にある文学部においてとりわけ必要であるとし、「革マルの暴力的抑制下にあって、クラス活動はもとよりキャンパスに入ることもおぼつかないという文学部で、クラス・個人に分断されんとしている闘いを結合し発展させていくためには、もはや形式的な団結の象徴である執行委員会だけでは決定的に不充分である」とその理由を述べている。」(http://www.19721108.net/1973年5月8日)

 

 ここでも「自治委員会による組織は代行化の弊害を生む」とし、「形式的な団結の象徴である執行委員会だけでは決定的に不十分」と、自らを前衛化して自治会再建運動を乗り越える意思が見て取れる。上記の哲学4年のクラス討論での「団実委は実体のない私的機関」と、団実委の「形式的な団結の象徴である執行委」とは相互に否認して真っ向から対立している。ここに自治会再建を願った多くの学生と全共闘生き残り世代との間の亀裂と衝突が記録されている。そしてこれ以降雪崩をうって崩壊していく早稲田解放闘争の分水嶺はっきりと見て取れる。そして5月10日、一文自治委員協議会が開催され、以下のように概ね団交参加の結論を出す。この段階でも一文の新自治会組織はこれだけの団結と機能を示していたのは記憶すべきである。

「5.17団交に向け、一文では各クラスの意見を集約するための自治委員協議会が開かれた。『一文有志の記録』によれば、参加したのは1年生13クラス、2年生12クラス、3年専修5(編註:いずれも旧学年)であった。ここでも5.8『総長』団交を実施した「全学団交実行委員会」の実体、存立基盤が問題となった。協議会では、5つの原則を確認した上で団交に参加する趣旨の決定がされた。

1.学大等による大衆的な団実委の結成。2.各クラスから1名の団交実行委員を選出。3.各執行部、団実委で話し合い、全学団交実現に関する要求項目、運営方法について協議し、意志一致をする(5.17にはこだわらない)。4.以上の点を守ることにより、各学部自治会の闘いを踏まえ、全ての自治会の確認の元に行う。5.5.8団交の主催が全学団交実行委という実体のない名称を使用し、準備について大衆的な確認をとらなかったことを自己批判すること。」(http://www.19721108.net/1973年5月10日)

そしてこの混乱の時期に、後に翌月には武装を決意する「一文二年生連絡協議会」が5月14日に初会合を行い、その同じ日に樋田委員長が革マル派のテロ部隊に襲撃されて8号館前で重傷を負った。ここまで議論を重ねて5月17日総長団交へと全学で意見の集約と組織化が進んでいたが、結果として大学は中止を通告してきた。

「16日夕刻、押村襄常任理事が記者会見を行い、団交中止の理由として「行動委学生との話し合いにおいて議題や団交の方法について意見が一致しなかった」「15日に開かれた革マル派の全国集会には900人が参加。この人数で団交が実力粉砕されれば大混乱となる」「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」との3点を挙げた。」(http://www.19721108.net/1973年5月16日)

行動委との準備協議が整わず、「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」と云うのが総長団交の拒否の理由にあげられ、上記の「哲学4年クラス」が言った「実体のない私的機関」と云う危惧が的中したのである。ここに行動委員会・団交実行委員会自治会再建運動を凌駕してまで進めて来た、やりたいものがやりたい事をやると云う直接行動の論理、旧世代の全共闘方式の運動は敗北を喫した。実際にも全学行動委WACは武闘方針をこの後に本格化するが6月までに数回の革マル派との部隊衝突を繰り返した後、クラス討論に足場を持たず自ら前衛的に遊離したが故に、学生大衆を守るでもなく分解し沈黙していった。

総長拉致を実行した者が後に語っている。

「はじめは理工にルートがあるから「やりましょうか」「いいね」みたいな話から始まった。(中略)総長を8号館に連れていって座らせ、僕がアジった。実際の団交の司会進行は、団交実行委員会にやってもらった。始まったら学生が集まってきた(編注:新聞では3000人位とある)。あの時、革マルは文学部に部隊をかき集めていた。こちらは学生がいっぱい来ているから襲われる心配はなかったけれど、とりあえず革マルは部隊を文学部に溜めていた。革マルもどうしたらいいかわからなかったと思う。団交の中身については、極端に言うと「やりましょうか」と言って「いいですよ」みたいな軽いノリで、あまり深く考えていなかった。団交実行委員会の方で考えていたのかどうか。総長を引っ張り出して、大衆の前でいろいろ疑問を解消して、最低でも謝ってもらいたいなというふうには思っていましたけれど。(編注:5.17団交の確約を反故にされたことを受けて)あの状態でそのまま続けた方が良かったという意見もある。だけど、まぁ、しょうがないな~という感じもある。やっぱり大学当局を信じすぎたところがあるのかな。」(http://www.19721108.net/1973年11月19日)

話の中身に自治会再建運動との関連は何も語られていない。団交の中身については「軽いノリで、あまり深く考えていなかった。」とある。団交確約の反故については「大学当局を信じすぎた」とあって、団交実行委が全学を代表していないと言われた理由への反省の弁はない。文学部では前日に予定された一文団交を革マル派が角材や鉄パイプを持参して介入し、初めての双方で100人規模の乱闘があった。それ故に5月8日も革マル派は部隊をそこへ常駐させていた。一文の新自治会活動潰しを横目に総長拉致は行われたと言えよう。自治会再建のあの重大な局面で、それとは無縁にこの程度の動機で総長を拉致し、全学的論争を惹起し、挙句は団交確約を破棄され全学の運動をアパシーに投げ込み、そこを革マル派が総攻撃で突き、全てが武力制圧の段階に一気に入った。学生大衆を集める自己陶酔的な劇場的行動にしか関心はなく、それが現実に5月17日に襲撃されて多数の負傷者を出した事への謝罪の言葉一つすらない。彼らが自らが関わったかつての闘争を第二次早大闘争と呼び、今回のを第三次と呼びその早稲田解放闘争を混乱におとしいれたのは記憶しておくべきだろう。川口君追悼の運動は私達一般学生の方が主体であったので、「第三次早大闘争という言葉は私は歴史認識上受け入れられない。

 5月のこの大混乱が自治会再建運動の全てのスケジュールに影響し、また革マル派もこれに乗じて武装制圧を本格化して来た。翌日の総長団交予定日、5月17日の大隈銅像前での、一文大衆デモ隊への鉄パイプ襲撃はその開始のゴングでもあった。私は樋田氏が襲われて療養中だったのでその約300人の文学部デモ隊を指揮していた。当時でもこれだけの大部隊は一文だけである。守るべき男女の仲間がそこに居た。賛否大論争のうちに結集を決めたあれだけのクラス活動の学生大衆が、革マル派の鉄パイプの大部隊の前に晒されたのである。立て看板に飛び降りてその五寸釘で足の裏から甲まで撃ち抜かれた女子学生など多数の負傷者を出しながら、それでも再結集し学内デモを再開。しかしデモ隊は遥か遠くの四谷駅側の外堀公園まで一時間以上かけて機動隊によって規制されて運ばれた。沿道の市民が拍手して応援してくれた。今日では信じられない事だが、早稲田解放闘争は新聞・テレビの全国版で連日報道されていた。渋谷駅などで臨時執行部がカンパ要請活動を行うと1日で数万円が集まった。私達は公園に着くまで「早稲田解放、革マル粉砕」を声を限りに叫んだ。私達は四谷の公園から再び電車に乗って本部前に引き返して結集し、デモを再開し再び四谷まで連行された。二度やって、公園で声も枯れ疲れ果てた、半分は女子学生の文学部の仲間達が私の顔を一斉に見た。私は「もう一度行くぞ」と言った。だから、三度連行されたと記録にある。(http://www.19721108.net/1973年5月17日、革マル派に襲われ、機動隊に阻まれ、団実委は身動きとれず)

2 図書館占拠闘争:世代のねじれの最終章

「11月19日夜8時頃、行動委系学生14名が、本部構内の図書館に突入、占拠した。図書館の内側から鍵をかけ閉じ込もってアジテーションをしたり、蔵書を投げるなどして抗議した。図書館占拠という手段に訴えた要求項目は、『虐殺者の祭典・早稲田祭を即時中止せよ!』『早大当局者・村井総長は、5.17団交からの逃亡を自己批判しただちに全学団交に出席せよ!』である。大学当局は、同夜11時頃一部学生が図書館を不法占拠したとの理由により、機動隊の出動を要請、結局、図書館を占拠した学生は、14名全員、『不退去罪』で逮捕された。」(早稲田キャンパス新聞185号。http://www.19721108.net/1973年11月19日)

 

これも当事者の後日談がある。前述の総長拉致について語った者と同一人物である。

 

「●発想の元。この話の始まりは8月の末くらい。6月のゲバルト(編注:6.4の革マルと衝突で勝利したことを指す。勝利したが、学内に拠点がないので優勢を保持できなかった。)の反省があり、何をもって闘わなくちゃならないかを考えたら、徹夜集会や1.19、総長団交みたいに軸があれば学生が集められる。革マルは人が集まる機会を閉ざしているから、人さえ集められれば、確率的にも物理的にも私たちが勝てるというふうに考えた。●人集め。後退局面なので個別に話した。団交なんかの時は「みんなでやりましょう」って言えば「みんなでやりましょう」なんですが、後退局面で負け続けているような状況になると、「やりませんか」と言って個々に説明しないと無理なんです。そうなるとどうしても情報が漏れる。それが党派に漏れちゃって、党派と交渉しなければならなくなった。交渉には一切関わらなかったけれど、党派との約束なんかもしなくちゃならない。そうなると期日も限られてきますよね。当日、学内で部隊を待機させていた党派があったけれど、15人だった。それぐらいの人数だったらこちらでも集めるのは難しくない。人数の話ではないんですよ、早稲田でやっていくためには。だからあまり党派とはやりたくなかった。●メンバーの顔ぶれ。政経行動委(P A C)を中心にしたメンバー構成になりました。半分以上が政経、あとは一文、教育、社学です。人数も多くなかったから、政経とそれ以外に分けて分担してオルグしました。(編注:政経8人、一文3人、教育2人、社学1人)。●実行期日。やると決めた11.19は、早稲田祭を中止させるリミットに近かった。目標としてはもっと早い時間、昼間のうちにやるつもりだったけれど遅くなった。集合場所の明大の生田がロックアウトだった。青解が封鎖していたの。それで遅くなった。いろいろ調べて、図書館に入りやすい時間帯があることがわかっていて、昼を外すと少し遅くなる。期日を延ばすという選択肢はなかったから、結局ああいう結果になったんですけれど。意図としては、学生を集めてやればなんとかなるかなと、それ以上のことはあまり考えていなかった。こういう形で人を溜めてやるような形の闘争をやろうとしたものだから、外にも人を確保しておかなければならない。そうした人員もいました。」(http://www.19721108.net/1973年11月19日)

 

これをやった動機を抽出すると、「人さえ集められれば、確率的にも物理的にも私たちが勝てるというふうに考えた。」、「意図としては、学生を集めてやればなんとかなるかなと、それ以上のことはあまり考えていなかった。」とある。これが第二次早大闘争の運動スタイルそのものである。建物占拠などの象徴的行動で耳目を集める、その後の事は考えていない。総長拉致団交もそうだった。何をもって勝てるとしているのか空無である。既にして一般学生も含めて多数の流血の惨事となっている政治的場面に演劇空間を演出して登場し、そこで主役を演じて自己陶酔して終わる。学生大衆を単なる観客として踏みつける政治の演劇化と言うべきである。以下に、図書館占拠した際のビラがある。主張は四つある。総長が団交拒否した理由はらに全学を代表する正統性がなかったのだから、敗北しておいてまた要求するのは、そういう自己省察とは関係なく機械的に言ってるとしか思えない。他の三つもそうだろう。

「●全員に告ぐ、全員に告ぐ、全員に告ぐ--我々は虐殺者の中枢を占拠した。

・川口君虐殺徹底糾弾 虐殺者の杜を占拠せよ。・虐殺者の祭典:早稲田祭を怒りをもって粉砕せよ。・総長村井の5.17団交からの逃亡糾弾! 全学総長団交へ出てこい。・当局-革マル-民青(民青・日共教職組)の三位一体となった早大管理支配体制解体」(http://www.19721108.net/、1973年11月19日)

そして続いて以下のようにビラにはある。

「我々のこの闘いが広汎な学友の共感と共にあることを確信し」、「早大4万学生大衆が心中密かに望んでいた直接行動であったと確信している。」、「川口君虐殺を真に糾弾するひとりの無党派学生大衆として」、「学生大衆自身の自衛武装の第一歩がここに印されたのだ。」(http://www.19721108.net/、1973年11月19日)

 幼稚な前衛的自己陶酔に走っておきながら「学友の共感と共にある」など理解に苦しむ。自治会再建運動とは無縁の主張であり、「僕らの屈辱の大転換」の延長としか言えない。これまで示してきたように、らへの学生大衆からの根底的批判は数々の資料やビラに明確に記録されている。

3 学生自治会再建・承認問題:自治会再建はできたか

一文の自治会再建は成功していたかどうかと云う問いが残る。そこには、私達自身の意思と力量、相手の教授会の承認条件と意欲、そしてそれを阻止しようとした革マル派の意思とその介入戦術の三つの要因が重なって来る。 

一文学生の意思は強固なものがあった。1972.11.28の全学に先駆けた第一回学生大会で臨時執行部を樹立、1973.1.23の第二回学生大会で新執行部を樹立し一週間のスト決議、1973.1.30の第三回学生大会で第二次一週間ストライキ決議。その間、1972.12.5に第一回学部団交、1973.1.27に第二回学部団交、1973.2.5に第三回学部団交と連続して交渉も続けた。新年度に入っても、1973.4.10学生大会予定(代々木駅頭で革マル派に襲撃されて中止)、1973.4.21第四回学生大会成立。そして、1973.5.2の文学部181大教室に500人が集まって第四回学部団交、1973.5.7の予定された学部団交は革マル派の武力介入で角材と鉄パイプ(革マル)で乱闘になり中止、ロックアウト。しかし、この短期間に学生大会と学部団交をこれだけやった学部は他にはない。

 そして、総長拉致団交の後、1973.5.10には「旧1年生13クラス、旧2年生12クラス、旧3年専修5クラス」が集まって自治委員協議会を開催して、紛糾の末だが条件付きで5.17総長団交に参加することを決議し、実際にも1973.5.17の日には約300人の長蛇のデモ隊列を成し、三度まで四谷駅まで機動隊に連行された。ここまで団結していた学部は他にはない。

 一方、一文教授会は、1973.2.5団交において「新年度の自治会費代行徴収の要請書」を学部に提出するよう申し入れて来た。これは学生自治会の根幹に関わるもので大激論になり執行部としては結論が出ず、1973.2.6学生大会(流会)議案書には以下のようにある。

「我々は彼らの要求に対し、当面正式な自治会として教授会に代行徴収を要請する。しかしながら、代行徴収に関する我々内部における論議が何らかの形で煮つまるまで、我々自らの手で自治会費を凍結しておくつもりである。」(http://www.19721108.net/1973年2月6日))

 

 この学生大会に独自の議案を提出しようとしていたBACHグループのそれにも、自治会費代行徴収について意見が述べられており、正当にも代行徴収反対と正論が述べられていた。事前にそれを知った執行部は驚愕し、上記のような妥協案でしか今回は乗り切れないと申し入れた。その役目は私に任され、苦渋の思いでその削除を要請した。BACHグループは忍耐力を示しその削除に同意してくれた。その時の、彼らの複雑な表情を今でも覚えている。だから、今日残っているその議案書の最後のところは黒塗りになっているのである。

 この問題は大議論になって結論が出ずにこのような折衷的な議案提出に至った。しかしながら確かに言える事は、4月からの新入生の自治会費の代行徴収の要請書を新自治会に言ってきたのは、新自治会を承認する予定であった事を示していることである。学生自治会にとって「承認か自立か」と云う主体性議論はあったとしても大学側は承認なのであり、自治会費代行徴収の許可を新自治会に求めたのは、ほぼ承認する予定であったと言っていい。

 続いて一文教授会は1973.2.8には以下の「自治会承認の条件=四項目」を三年生以下の自宅に送付した。これを各報道機関が「絶対多数による承認」と厳しい条件付きであるとして、「新自治会を認めない方針」と報道した事に対して、それは誤解であり条件さえ整えば承認するつもりであると報道機関に抗議し訂正を申し入れている。このやりとりは当時私たちは知らなかったが、今日その資料を見ても教授会が承認一歩手前であった事がはっきりする。

 

第一文学部教授会:四項目の承認条件

1)クラス委員(自治会員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。

2)選挙期間・方式等を予め提示した上でのクラス在籍者過半数が出席することを条件とするクラス委員選出、及び公開の開票。

3)クラス委員総会において多数の支持を得た執行部の選出。

4)執行部による、全自治会員の総意を常時反映しうるような自治会規約案の提示と、その全自治会員による絶対多数による承認。(http://www.19721108.net/1973年2月8日)

 

新年度に入ると、一文教授会は新入生に対して自治会承認のための五原則を提示した。

 

第一文学部教授会:五原則の承認条件

(1)新執行部が、学生大会決定事項につき、学部投票の方法で、学部自治会員過半数の支持を確認すること。

(2)クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。

(3)選挙期間・方式等をあらかじめ明示した上での、クラス委員選挙、及び公開の開票。

(4)クラス委員総会において多数の支持をえた執行部の選出。

(5)執行部による、全自治会員の総意を常時反映しうるような自治会規約案の提示と、その全自治会員による絶対多数による承認。

(1)の学部投票が前回の四項目より増えた。なお、この告示は「新入生諸君へ」となっており、在学生が「暴力排除・学生自治の問題」に積極的に取り組んでいる折から、「新入生諸君の健全な自治会再建への努力を期待してやまない」と結ばれている。(http://www.19721108.net/1973年4月3日)

そして第一文学部教授会は、革マル派の統一学生大会教室使用を許可せず、逆に新執行部を激励するような、以下の文書を1973.4.9に送付した。

「第一・第二文学部教授会・教員会は、すでにあきらかにしてあるように、全学生過半数の支持、公正な委員選挙、自治会規約の制定などを含むいわゆる『五原則』にのっとった自治会再建への動きを高く評価しており、またこの五原則を無視した自治会再建運動はありえないと考える。」(http://www.19721108.net/1973年4月9日)

そしてやや降って、1973.5.7の一文学部団交をめぐる角材と鉄パイプによる集団乱闘についての記者会見で、押村襄学生担当理事は、その事件はありながらも、一文の私達を唯一の交渉団体として新執行部として呼ぶとした。

「この記事(註、朝日新聞)にはまた、記者会見での押村襄学生担当理事によるコメントも併記されている。『旧自治会執行部をリコールした執行部は規約もなく、自治委員の選挙もしていないので新執行部とは認めていない。しかし一文の執行部は現在ある交渉団体としては唯一のものなので、新執行部と呼びたい。』」(http://www.19721108.net/1973年5月7日)

以上のように、一文学生自治会の意思と力量、教授会・大学側の承認条件と意欲を見る限り、ほぼ第一文学部自治会承認の段階に達していたと言っていい。最後の関門の自治会規約は既に4月上旬には完成しており、新入生を含む自治委員選挙を行った上で、新年度新執行部を選出すれば教授会の言う「五原則」はクリアできるのは確実で、それを待って大学側は承認する予定であった。 

この押村襄学生担当理事の記者会見の日付は5月7日である。その翌日の5月8日、全学行動委・全学団交実行委(準)は、こうした自治会建設運動やそれを認めようと努力しつつあった大学側の意欲をよそに、突然、総長を拉致し強引に団交を行ったのである。そしてそれに失敗し、既述のように、全学の自治会再建運動を破局的な状況におとしいれた。

 それでも早稲田大学第一文学部学生自治会執行部は、1973.6.11に自治委員総会を本部キャンパスで開き、新しい自治委員選挙の態勢作りに入った。全学行動委員会・諸党派と革マル全国動員武装部隊が、数百人で入り乱れて本部キャンパスで白兵戦を演じるようになった5月30日以降の戦争状態の最中においてである。だが、そうした集会自体の防衛が必要なほど、革マル派の無差別の武装襲撃は激しくなっていた。それでも尚、私達は学生自治会としてクラス討論とクラス決議に基づき(岡本厚氏の証言)、大衆的・組織的に最後まで闘い続けた。

 他学部の状況はどうであったか、簡単に記述する。

教育学部: 1973.1.24:唯一の交渉団体として認める。

1973.2.22:総意に立つものとして承認する。

      1973.6.21:新執行部が確立した時点で自治会承認する。

政経学部: 1973.1.26:自治会再建学生投票を有効と認める。

      1973.4.24:残りは第五項目だけ。着実に前進するように。

第二文学部:1973.2.10:現在の臨時執行部を承認する方向へ努力する確認書に署名。

      1973.3.13:五原則提示(一文と同じもの)。諸手続きを含めた学生自身によ

自治会再建が推し進められてゆく事を切に望む。

      1973.4.23:二文学生大会。500人で早稲田通りを高田馬場駅までフランス・

デモ。

 運動の起きなかった理工学部革マル派の拠点であった商学部と社会科学部を除くと、他の三学部でも自治会再建運動は、勝利一歩手前であったと言っていい。結果的には商学部と社会科学部に革マル派自治会が残存し、他は自治会そのものが消滅した。法学部だけは民青系自治会がそのまま生き残り、その後2000年代に入って、自ら自治会解散決議を行った。

 第一文学部の自治会再建運動は、1973.5.2の団交まで順調だった。一文教授会は「新入生諸君の健全な自治会再建への努力を期待してやまない」、「自治会再建への動きを高く評価」とし、押村学生担当理事は「一文の執行部は現在ある交渉団体としては唯一のものなので、新執行部と呼びたい」とまで発言している。そして、1973.5.7に予定されていた一文学生自治会執行部と一文教授会の団交は革マル派の鉄パイプ襲撃で流れ、翌1973.5.8には学生組織を代表もしていない任意団体の全学団交実行委員会が総長拉致団交を強行したのである。ここが岐路であった。同5.14、樋田委員長襲われ重傷。同5.17、総長団交予定日、私が指揮していた一文の300名もの長蛇の隊列、大隈銅像脇で革マル派鉄パイプ部隊に襲われ負傷者多数。誰がどのようにして自治会再建運動を圧殺したのか、一目瞭然であろう。

 しかしながら、学生自治会自身の再建手続きはほぼ最終段階に至っていた事、教授会・教員会及び理事会のそれへの期待と評価が煮詰まっていた事からすれば、上記のような妨害がなければ、全学の中で最も早く学生自治会承認が成され得たのは第一文学部であったのは間違いない。教授会・教員会と学生自治会の「一文コミュニティ」が、学部生を一人失った衝撃から立ち直り相互の努力によってここに至っていた事は、半世紀後の今、特筆するに値する。とりわけ、多くは鬼籍に入られたであろうが、文学部教授会・教員会の先生方の忍耐強いご理解とご尽力に対して、学生自治会の執行委員だった一人としてここに深甚なる感謝を表明しておきたい。

 

第5章 早稲田解放闘争は終わらない

それが人生で最も美しい時だなんて、誰にも言わせない。(ポール・ニザン

 

この論考は残された資料を最大限渉猟して根拠を示しながら、あの早稲田解放闘争を私なりに総括するものである。自治会再建は成らず、川口君の無念も晴らせなかった。

 無論、角材から鉄パイプへと武器もエスカレートさせ、政治党派の活動家でもない普通の男女の学生めがけて、ところ構わず襲ってくる革マル派の異常な武力支配が一番の原因である。だがそれを放置した大学の責任もある。施設管理権で排除されたのはいつも私達の方で、革マル派の全国動員精鋭武装部隊は決して学生会館から排除しなかったし、その学内集会は許可し機動隊は常にそれを守った。

 中核派社青同解放派などの諸党派は、その介入が自治会再建運動を党派闘争レベルに巻き込む事になるからと、再三にわたって私達が自重を求めたにも関わらず、一方的に自己都合で武力介入し、早大キャンパスを党派闘争の戦場と化した。中核派は早い時期の1973.1.18に約400人の武装部隊で本部キャンパスに入ろうとして多く逮捕れ、残った約200人ほどが本部正門から突入、革マル派大部隊に襲われ敗走した。革マル派を使った典型的な他党派潰しで、それ以降、中核派早稲田大学に登場していない。翌日の朝日新聞に「中核派が今後も実力で早大構内への突入をはかれば、革マル派や反革マル派の学生との間に新しい摩擦が起こるものと見られ、早大自治会再建運動は、さらに混迷するものと見られる。」と書かれた。(http://www.19721108.net/、1972年1月18日)社青同解放派、1973.4.21の一文学生大会の日にその支援と称して約200人が本部キャンパスに入った。また、総長団交中止の翌日、1973.5.18に約200人でキャンパス内数カ所で革マル派を襲撃し、以降、6月末まで全学行動委WAC・戦旗派・叛旗派と連合して、本部キャンパスを舞台として革マル派部隊と連続的にゲバルトを演じた。両派ともその後19739月以降早稲田大学外で党派闘争を深刻化させた。

諸党派なりの自治会奪還の意図はあったにしても、自治会規約から創出していた私達の自治会再建運動とは何の関連性もない。彼らも学生運動の主体は自分達で、党派間の導権争いで学生自治会を奪いあうという構造は革マル派と同じであった。早大文化団体連合会(文連)革マル派の前は社青同解放派が一時支配していた。私達はそういう観念そのものを否定したのであり、反革マル派諸党派から私達は距離を置いていた。私が書いた一文学生自治会憲章の「九原則」はトータルでそれを表現してい際に私達が革マル派の武力で鎮圧された後に学生運動も含めて日本の社会運動全体が衰退したのはそうした体質が社会から見放されからであろう。私達は学生自治会再建では敗北と云う代償を払った。しかし、個々の政治的主体であるマルチチュードを操作的対象としてしか見ないそうした党派的政治主義含めて私達は批判していた。信を問うべき学生大衆を逆に襲い、手前勝手な党派闘争に相互にカルト的に純化して行った。その意味では革マル派から党派闘争レベルの暴力を私達の新学生自治会引き受け、その自治会再建運動敗北が結果として彼らを内ゲバという政治思想の終焉の淵に追いやったとも言えよう。

私達はその時代とその世代のねじれを選択することはできなかった。不意にやって来た川口大三郎君の虐殺死からともかく出発するしかなかった。だがその軌跡は人によって異なる。古い時代のステレオタイプ的作法でリベンジせざるを得なかった人々は、新しい世代の怒りと感性と創造性に鈍感であった事を反省すべきである。当事者の革マル派の諸君もその反対側の諸党派の諸君も、奉仕すべきは世界の人々であって孤絶した思念ではない事をこれを機会に学ぶべきであった。この後、内ゲバで百人を超える死者を出し、1972年の連合赤軍事件と共に社会運動と云うものへの決定的な不信感を日本社会に刻印した。

 大学の声明や告示も全て詳細に読んだ。中には声涙相下るような学部長の告示もある。確かに学生が無責任な要求をしている。ならばなぜ総長をはじめ、膝を詰めてとことん談判に応じなかったのか。学生を教育の力でなぜ説得しようとしなかったのか。総長が約束した団交を拒否してからキャンパスは全面的な戦場になったのだ。最初期の1972.11.13の図書館(今の2号館)前での徹夜糾弾集会の日、夜明けに機動隊を入れて革マルを救出するのでなく、全学の教員もそこへ結集し3000人の学生らと対話すべきであった。それでこそ大学であろう。あの朝、機動隊が革マル数人を救出して帰った後、私もずっとその朝までそこにいたのだが、夜明けの大隈銅像の脇で最後まで残った私達全学300人の学生が歌ったのは校歌である。怒りの中心に居たのはただの早大生だった。「第一次早大騒動の時に阿部賢一元総長が示した紛争解決に対する熱意と努力が、いまこそ大学当局に必要だろう。」(1973121日、読売新聞)とマスコミにも幾度も書かれた。

 最後には私達一文学生約80名の男女は、武装まで決意し1973.7.13の文学部中庭武装集会をやり、革マルの全国部隊に襲撃されてあっけなく粉砕された。党派の争いだ、他大学の学生だとシニカルに傍観する事もできよう。しかし、7.13文学部中庭において最後まで学生自治会としての組織的な抵抗をやめなかった男女学生は、全員が一文の普通の学生であった。後に、X団うんこ軍団の5名の女子学生から一名の大学教授、一名の著述家、X団本隊10名のグレーヘルメットの中から弁護士一名、写真家一名、私を含めて大学教授二名(もう一人は早大教授)が出ている。樋田氏の著作に実名で経歴も紹介されているが、学部中庭集会に武装して参加した岡本厚氏は、後の雑誌『世界』の編集長、岩波書店社長である。

 傍観者的な「暴力反対」は通用しなかった。私達は圧倒的な総意でリコールした革マル派学生自治会再建を巡って対峙していたのであり、その単発的な暴力だけではなく組織的な武力で鎮圧されようとしていた。学生自治の活動と表現を奪われ、身体の自由を奪われ、生命を脅かされる状況にすら追い込まれた(1973.1.19、11号館の屋上から革マル派によって投げられた重い物で一人の学生が頭蓋骨陥没1973.4.4自治会執行部・行動委員会会議への襲撃でも頭蓋骨陥没1名、重傷10)。それらに対抗した二連協とX団の自衛武装は、例え角材や鉄パイプと云う武器を用いたと非難されようと、相手の武力レベルに応じた自らを守る正当防衛であった。民主的に選出された学生自治会執行部を守り、各人の身体と生命を守ろうとした合法的な営為であった。ただ、自衛武装を呼びかけた一人として、敗北して結果的に誰も傷つけなかったのは良かったと今は思う。

 私達の貧弱な自衛武装で、眼前に突撃して来る歴戦の革マル派鉄パイプ精鋭部隊の身体にまで到達し得たのは、わずかにX団女性部隊の数個の人糞爆弾のみであった。貧弱でもいい、勝たなくてもいい、それが自衛と云う抵抗思想である革マル派諸党派や全学行動委員会の諸君はこれを嗤うだろう。しかし彼らが早稲田大学キャンパスを勝手に党派闘争の戦場と化し、そしてそこから何の総括も挨拶もなく6月末に拡散・逃亡して沈黙した後に、私達は革マル派の150名の鉄パイプ部隊に襲われながら7月まで尚も組織的に闘っていた。そしてその敗北後も9月まで女性部隊も含めて武闘訓練を続けていた。9月の学外の内ゲバ本格化によって折り重なる死者の応酬となり、自治会再建運動は全学で一斉に頓挫し同時にその防衛任務は消失した。その時まで、大衆武装集団早稲田大学第一文学部学生自治会の公然武装組織「一文二年連絡協議会」と非公然武装遊撃隊「X団」は、かくの如く闘い続けた。旧世代の全共闘運動の自立・創意・連合」と云う核心を引き継ぎグレーヘルメット・竹竿・角材・鉄パイプ・人糞爆弾で細々と武装して革マル派と最期まで闘ったのは、この「ICHIBUN 80」の男女学生であった。

 当時一文一年生だった松井今朝子もデモに参加した。それは最初期の文学部スロープ上でのデモで、小柄な松井今朝子は足が空回りし絶叫マシーンのようだったとある。

 

 「もちろん私はノンポリ学生で通したが、デモには一度だけ参加している。それは川口君という文学部の二年生が構内で革マル派日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)のリンチによって虐殺された際に、一般のノンポリ学生が革マルの追放を呼びかけて立ち上がった学内デモである。川口君の死にざまは立て看やチラシに無惨な図入りで訴えられて、それはいくらノンポリでも学内にいて見過ごすわけにはいかない事件だった。近年、私は村上春樹の『海辺のカフカ』を読んで、ある部分の描写が明らかに川口君事件をモデルにしていると直観したくらい、心に深く刻まれた事件なのである。」(松井今朝子『師父の遺言』、p69)  

 

川口君の死は、手を下した革マル派の内在的論理では内ゲバであろうが、川口君や私達にとっては決して内ゲバ死ではない。そこに決起した全学の学生の怒りの根拠があった。そうでなければ数万の学生が決起したあれだけの運動は起きない。彼は種々の社会問題に関心の深い一青年で将来は教員か新聞記者を目指していたとも聞いた中核派が熱心にやっていた狭山問題の集会にも出たし、その他多方面に顔を出し一時は統一協会の新聞にすら関わっただから村井総長が寄付したセミナーハウスを巡って総長と統一協会の間で裁判抗争まで起きているしかし、川口君以前に既に双方で数人の死者を出していた新左翼諸党派にとっては、川口君の死は当然のようにして内ゲバ死と見做され党派闘争の根拠とされた。

内ゲバ死でないとすれば何か。長い間、早稲田大学当局と革マル派との癒着によって学生自治閉塞化されていた。そしてカルト的な政治党派が代行徴収された巨額な自治会費を大学から受け取りながら自治会費を払った学生達を学内で武力制圧し、他党派からの保身の為に事実上の学内私的警察権を行使すると云う異常な事態の中で川口大三郎君の「スパイ容疑リンチ殺害事件」も起きたのである。これは当事者間の宗派的憎悪による内ゲバよりも遥かに深刻な大学を舞台にした利権がらみの政治的腐敗である。殴る蹴るの目に見える暴力だけではなくこの構造的暴力カニズムこそ打破すべき対象であった。学生自治会再建運動はその意味で、彼らの異常な「私的武力制圧を払拭し、学生自治のみならず権力からの「学の独立」をも復権させようとする学生達の根源的な闘いでもあった。

大学が学生自治会に与えた教室で事件は起きた(今もその教室番号は同じで戸山キャンパス32号館128教室没後50周年の日に一文の仲間で献花した。)。早稲田大学自身が内部に抱えた政治的腐敗その構造的暴力が原因である。それが革マル派の学内私的制裁(殴る蹴る)暗黙の内に許容されていた理由である。目をつけた学生や教員までへの吊し上げやリンチは日常風景でその一つがたまたま川口君事件であったに過ぎない。

川口君事件の年前、第二文学部の学生が革マル派のテロで学内にすら入れなくなったのを理由に革マル派や大学当局に対する抗議文と遺書を残して、文学部正門向かい側の穴八幡焼身自殺していた。(山村遺稿集『いのち燃えつきるとも』大和書房、1971。帯の推薦者は五木寛之李恢成。1972年に新装版も出ておりこれを知る早稲田大学の学生は多かった。この意味で早稲田大学の構造的暴力による死者としては川口君が二人目であった。多くの学生にとっては「またか。今度は殺したか」であった。この二人は村井資長総長の下の同じ腐敗構造による犠牲者であり内ゲバ死では決してなまたそれより悲惨である志高く入学し熱心に学んでいたその大学と云う組織の構造による政治的圧殺死であった。

知性の拠点である大学の腐敗と構造的暴力、それは知性の崩壊を意味する。1960年代に露呈した知性の崩壊が川口君の死として大学の歴史に刻印されたと言えよう。知性の崩壊は大学と革マル派はもとより、全共闘側も諸党派も、そして私達一般学生も一蓮托生であった。その後の多数の内ゲバ死を防げなかったのはその時代の社会を下支えしていたはずの知性の崩壊以外の何ものでもない。左翼言論人が幾度も内ゲバ中止を勧告したが彼らは聞き入れなかった。山村明氏の、川口君の死以前からあった知性の崩壊、れがこの早稲田解放闘争敗北が後世に伝えることができる一つの遺訓である。この闘争は川口君の死を等身大に引き受けその責任を負い続ける者や組織が存続する事なく、荒涼たる空漠のみを残した。その意味でHumanismという普遍に対する関わった全ての者の「総敗北」である。私も含めてOB/OG、教員・職員・学生、そして早稲田大学理事会は、「学の独立」を再び唱えるならば、川口大三郎君の名前を忘れるべきではない。

 川口大三郎君は無念の死を迎えたがその意思は奪われていない。そして私たちも敗北はしたが決起した想いは奪われていない。私たちが残しえる確かな力のある言葉は、語られなくともあの闘いに立ち上がった全ての学友達の胸に無数にしまわれていよう。そこに彼がいる。それらを世代を超えて繋いでいく限り、早稲田解放闘争は心の中で終わらないであろう。   

 

終章 村上春樹への返答

 

当時、一文の学生自治会員の一人に、演劇科四年の村上春樹がいた。心を痛めたのであろう、村上春樹は後に『海辺のカフカ』と云う小説で彼なりの鎮魂を試みている。彼の言う「正しく公正で確かな力のある言葉」とは何か。私は、川口大三郎君の追悼と自治会再建と対革マル戦の最中、50年前の早稲田大学の空間で記され・語られた数々の言葉を検証してみた。探し得たのは先にも引用した「規約改正委員会設立宣言」であった。

 

「各個人の自発性に根拠を置き、自由で豊富な人間関係を確かに、また持続的に組み上げていく努力を通じて、問題意識が(それは心のなかに不安として、痛みとしてある。)交流し、真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。」

 

規約改正委員会の学友のこの一言が残った。この学友の言葉がある限り、私達の早稲田大学第一文学部学生自治会の早稲田解放闘争は終わらない。この学友の言葉が、私達が残し得た一つの「確かな力のある言葉」ではないかと思う。

 

エピローグ

 

 私は樋田毅氏と同じ一般学生の代表であったから、政治党派や行動委員会、団交実行委員会に当時から今日に至るまで批判的である。党派闘争があったから川口君事件が誤認で起きたにしても、反革マル派諸党派が川口君を中核派だと実質的に追認して党派闘争を早稲田大学に持ち込んだ。その二重の誤認が川口君の人格と人権を根底的に否定していた。犠牲者の人格と人権を踏み躙ってまで党派闘争が早稲田大学に持ち込まれたと思う。そこに象徴的な最大の政治的暴力があった。党派闘争の介入全共闘運動の生き残りのリベンジ闘争がなければ自治会再建は成功していたと思う早稲田大学は25年後の1997年頃、革マル派を完全に追放したやや遅過ぎた感はあるにしても奥島孝康総長以下の決断には敬意表したい

 X団以外に私は一文と教育学部の仲間と一緒に「自主講座運動」をやっていた。これも語り出すと切りがない。また、新入生歓迎実行委員会委員長として、1973年4月に発行したパンフ『彼は早稲田で死んだ』をまとめた。樋田毅氏の著作のタイトルはこれを採ったという。私もこのタイトルについては長い熟考の後に、シンプルなのが良いとこれに決めた覚えがある。

 また私の中国語クラスの2Tの活動も語れば長くなる。全学で最初に革マル自治会批判のクラス決議をし、文学部中庭に掲げたこのクラスは、今でもたびたび同窓会をやる。この2Tを中心にした種々のクラスの結合もあって、それが実は自然にX団の基礎になっていた。X団女性部隊の中心も2Tメンバーである。

 終章は「村上春樹への返答」とした。序章に書いたように、当時、一度立ち話をしただけであるが、この拙論がどこかで村上春樹の眼に触れる事を願っている。正しいかどうか分からない、公正かどうかも分からない、まして確かな力があるのか到底分からないが、私達は権力や大学からあれだけ踏みつけにされ革マル派の暴力に晒されても、「自立的な人間へと相互に高めあっていく」為に連帯を求める言葉を発することをやめなかった。強いられて最後に人糞爆弾を投げつけた事も、鉄パイプをやむなく握った事も、いずれも私たちにとっては極限状況の中でのLast Wordsであった。村上春樹は何と思うだろうか。

  樋田毅氏の著作は文庫化され。またこの度映画化されて『ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ』(代島治彦監督)となった。力作である。私も取材を受けて受け答えをしている。「野崎泰志は武装遊撃隊を組織した」と当時の私の写真と一緒に紹介された。それがX団である。何か、時代が一巡りした感がある。樋田毅氏の一途な執念がこのドキュメンタリー映画をも残した。この著作が第53大宅壮一ノンフィクション賞を得て、50年前の闇に光を投じ、現代社会へ一石を投じたのは確かだ。私達もこうやって再議論したり再会できたりしている。時を振り返る機会を与えられた達は誰もが彼に救われている、と立場を越えて思うのは私だけであろうか。

 

 

                   (日本福祉大学大学院国際社会開発研究科  

                   国際福祉開発学部教授・国際開発学

 

 

 

参照資料

 

樋田毅『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋、2021年11月10日。文庫本、2014410)。

山村明遺稿集『いのち燃えつきるとも』大和書房、1971

村上春樹『職業としての小説家』、スイッチ・パブリッシング、2015年9月17日)

村上春樹海辺のカフカ』(新潮社文庫、 2005年3月1日)

早稲田大学第一文学部11.8川口大三郎君追悼集編集委員会編『声なき絶叫』(非売品、1973年1月)

早稲田大学第一文学部学生自治会・新入生歓迎実行委員会編『彼は早稲田で死んだ』(非売品、1973年4月)

早大文学部有志「早大闘争の新しい地平--全共闘運動の彼方へ 」『現代の眼』(現代評論社、 1973年3月号 )

早大全学中央自治会 「早大文学部有志に答える(投稿)—早稲田学生運動の右翼的・民青的反動に抗して」『現代の眼』(現代評論社、 1973年5月号 )

西義広 「早大全学中央自治会の論理」『現代の眼』(現代評論社、 1973年6月号 )

早大文学部有志「再び問うー早大生四万人のアパシー」『現代の眼』(現代評論社、 1973年8月号 )

早大11.8集会実行委員会「早大闘争の今後」『現代の眼』(現代評論社、 1974年1月号 )

早大11月の黒い薔薇・早大武装遊撃隊「早大闘争のもう一つの芽」『現代の眼』(現代評論社、 1974年3月号 )

松井今朝子『師父の遺言』(NHK出版、2014年3月20日

高橋和巳高橋和巳全集』(第11巻、河出書房新社、1978年3月15日)

樋田毅「左翼的な気分は何処へ」『文藝春秋』(2022年8月号)

田島和夫『川口君虐殺糾弾、早稲田解放、あの日から五十年、死んでも忘れるものか』(非売品、2022年11月4日)

1972.11.8-川口大三郎の死と早稲田大学アーカイブ)、http://www.19721108.net/

「ゲバルトの杜」製作委員会『ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ:プレスリリーフ・パンフ』2024年2月)