この小文は、映画『ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ』が特別先行上映として、2024年5月5日に早稲田奉仕園スコットホールにて上映された際に、会場で配布されたものである。
会場には約140人ほどが集まり、用意した70部が払底した。上映後に何人もの参加者から要望があったので、ここに掲載する。
会場では原作者の樋田毅氏、監督の代島治彦氏、劇パート演出の鴻上尚歴史氏によるシンポジウムも行われ、関係者と云う事で私を含めて4名がそれぞれ短いスピーチを求められた。それは当日急に言われたので、この小文に書いた事を話した。好評を博したようで、中には早大生とそのご両親がやって来て立ち話になったりした。感想等のメールも数日以内に多くあった。
(この映画そのものは、2024年5月下旬から公開されるので、ご関心のある向きは足を運んで頂ければ幸いです。)
映画「ゲバルトの杜―彼は早稲田で死んだ」に寄せて
―あの時代の当事者と現代の表現者が交差したこの映画は未来世代に何を残すかー
臨時執行部副委員長(1972年〜1973年)
野崎泰志
この映画は樋田毅著『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋:2021年、文庫:2024年)を元にしたドキュメンタリー映画である。監督は代島治彦氏。「1960年―1970年代の政治闘争に燃えた『あの時代』」を描いた『三里塚に生きる』・『三里塚のイカロス』・『きみが死んだ後で』」に続く四作目に当たる。原作の著者は元朝日新聞記者で赤報隊事件の著作もある。1972年11月28日、一年生の彼は早稲田大学第一文学部学生自治会の臨時執行部委員長に、二年生の私は副委員長に選出された。私も取材を受けてこの映画に登場しているので、いくばくかの批評と補足を書いておきたいと思う。
まず映画の運びがとてもいい。私はドキュメンタリー映画の作り方を知らなかったが、インタヴューを全部一度文字起こしするらしい。それを全部頭に入れて繋ぎ合わせるというから大変な作業であると同時に、登場人物一人一人の考えや想いや立場を深く理解しないとこうはできない。監督の歴史認識の作法と深さ、映画と云う媒体のしなやかさが身に染みる。様々な人物の登場がそれぞれに反響し、内ゲバとは何であったかと云う本質論議に収斂していく。その残響が受け手に深く残る。見事な構成と言う他ない。
事件は1972年11月8日、早稲田大学文学部構内32号館128教室で当時学生自治会を支配していた新左翼党派の一つ革マル派によって起こされ、文学部二年生の川口大三郎君が集団的なリンチを午後から夜にかけて長時間受け、ショック死で死亡したと云うものであった。リンチの理由は、誤認なのだが、対立する党派の中核派の「スパイ容疑」であった。教室は今もそのままの番号で使われているので行って見れば分かるが、戸山キャンパス32号館から34号館へ抜ける一階の通路に面した鉄扉を開けてその廊下に入れば、右手前が127教室、連なってその奥が128教室。それで行き止まりの周囲から孤絶した閉鎖空間である。私達は没後50年忌に近くの教室を借りて追悼集会を行い、最後に128教室の前で献花した。こんな所でと言うより、やはりこんな部屋かと改めて思った。
パジャマ姿の遺体が東京大学医学部病院のアーケード下に放置されたこの事件は、テレビや全国紙で大きく報道され日本中を震撼させた。早稲田大学の学生は週末の数日の凪のような沈黙の後、月曜日から虐殺糾弾のクラス決議の立て看板を全学で瞬時に林立させ、一挙に巨大なエネルギーの反革マル派追放運動を開始した。週明けの1972年11月13日月曜日午後からの図書館(今の2号館:會津八一記念博物館)前での常時数千人による追及集会は、数人の革マル派幹部を立たせたまま翌朝まで徹夜で続行された。私もその場に居たが、空もまだ暗い早朝に機動隊が入って数人の革マル派を救出した。朝まで残った数百人の私達が最後に歌ったのは校歌「都の西北」だった。第一文学部を筆頭に革マル派自治会を各学部で一ヶ月位で次々にリコールした。各学部学生大会は数千人の学生が代わる代わる座り込んで、襲って来る革マル派を跳ね返して防衛した。この運動は長期にわたり連日のようにテレビ・新聞などで報道された。街の市民は我々の学生自治会のデモ隊に拍手をし、駅頭の募金では1日に数万円が集まった。1971年度入学の早稲田大学の学費は年間8万円だった。
学生自治会費は当時で一人年間1400円。今の学費と同じ比率とすれば一人年間21000円にもなる。それは学費と同時に毎年徴収され大学が自治会に下ろす仕組みだった。それを莫大な資金源と見做して諸党派が学生自治会を奪い合う時代であった。それを守る目的で私設警察化した革マル派が、怪しいと目を付けた学生や教員までをも衆目の中で尋問し、吊し上げ、殴る蹴るまでするのが日常風景だった。気に入らないからと云う個人的暴力とは質が違う。その二年前にも第二文学部の山村政明氏がそれに抗議して文学部向かい側の穴八幡宮で焼身自殺している。大学も一翼を担っていた構造的暴力であり、革マル派自身が批判していたスターリン時代的な一党支配の、思想弾圧としての政治的暴力であった。
この学生自治会費の利権構造を理解しておかないと、川口君を「スパイ」と呼んだ動機も見えないし、その後に革マル派が新自治会の私達一般学生大衆にまで鉄パイプ部隊による襲撃を繰り返した異常さも分からないだろう。日本の学生運動史上で初めて、一般学生が党派自治会をリコールしその利権を剥奪したのである。自治会再建運動は頓挫したが彼らの足場の第一文学部・第二文学部から学生自治会もその利権も消滅し、教育学部・政治経済学部からも消えた。25年後に早稲田大学は残りの商学部と社会科学部の革マル派自治会を追放したが、その際も自治会費を渡さないと云うのが決め手となっている。そこへ至る一里塚であったとすれば、私達の決起も敗北も無駄ではなかったと言えるかも知れない。
映画のメインテーマは川口君事件後に激化した内ゲバで、革マル派の武装襲撃に対応しながらの自治会再建運動には深く触れていない。それだけでも大きなテーマでかなりの内容があるので、編集の時間的制約によるものかも知れない。私にとっては残念な事なので、関連してここに書いておきたい事がある。
自治会再建運動に当初から関心のなかった全学行動委員会や全学団交実行委員会の、学生大衆とは何の接点もない行動、例えば総長を捕まえようとした1973年4月の入学式への黒ヘル部隊乱入や、同5月の総長拉致団交は明らかに自治会再建運動への妨げであった。そのような違法行為は自治会執行部の預かり知らぬ事であった。彼らの多くは少し前の全共闘世代の残留組であり、そのスタイルも「やりたい者が集まってやりたい事をやる」と云う全共闘運動そのもので、そもそも自治会再建とは無縁のリベンジ闘争であった。樋田氏他も言っているように彼らは事態を混乱に陥れただけである。また、彼らの総長拉致団交で約束された次の総長団交は、彼らが「全学学生を代表してない」と云う理由で拒否され(これは新自治会側の主張そのものだった)その運動目標が消失した後、社会主義青年同盟解放派、叛旗派、戦旗派などの反革マル諸党派や全学行動委員会は武闘対決を決定し、1973年5月末から6月末にかけてキャンパスを戦場と化した。双方で合わせて最大約300人にもなる部隊同士の衝突をわずか一ヶ月間で4回も繰り返した。学内での衝突は優勢に展開したが拠点を持たない彼らは続かず、潮が引いたように沈黙し姿を消した。政経学部行動委・大橋正明氏は、それ以降、一気に学校へ行けなくなった、と述懐している。
全学行動委員会・全学団交実行委員会は学内登場ができなくなった。この辺り、文学部と本部キャンパスの学生の間に危機感の落差がある。文学部では既に1月頃から革マル派の武力行使で自治会執行部やクラス自治委員は、こちらも多人数で武力行使しない限り入れなくなっていた。本部キャンパスの全学行動委員会・全学団交実行委員会はそれが6月になった。学内ゲバルトには勝ち抜いたのだから革マル派に追われてと言うより、自治会再建運動とは何の接点もない事が白日のもとに明らかになったからである。要するに自治会再建運動を引っ掻きまわしておいて、革マル派と大規模な武闘を演じた後、一言の総括も反省もなく去った。一方、私達はその戦争状態の6月段階でも一文自治委員協議会を本部キャンパスで開催し、自治委員選挙や学生大会の準備に取り組んでいた。それを経て新年度執行部が選出されれば、教授会による自治会承認は確実と云う段階にあった。報道では「黒ヘル集団が主導権」と書かれたが、それは唯の暴走であって自治会再建運動と全く関係がない。この1973年6月末を境に全学行動委員会・全学団交実行委員会は自ら足場を失い拡散、諸党派は革マル派との内ゲバに純化していったと言っていい。
しかし、文学部の二年生連絡協議会や武装遊撃隊「X団」はむしろその頃から武装を決意して1973年7月2日と7月13日の文学部武装中庭集会まで実施した。確かに革マル派の武力攻撃に対して各学部行動委員会は自治会の防衛の為に初期の頃は活躍したが、一文の場合、その多くは一文各クラス単位の自生的行動隊によるものであった。1973年4月の新学期以降、全学行動委員会・全学団交実行委員会は自治会執行部を乗り越えて独走・暴走した(3月13日の彼らの会議レジュメに、自治会執行部を「併呑して」とその方針が記してある)。結果として最後の山場であった7月13日の文学部中庭集会には支援に来ると言っておいて来なかった(叛旗派20名だけはこの日も支援に来て8名の重傷者を出した)。
一文の「X団」は非公然であったし、その活動は50年後の一昨年に初めて私が明かした事もあって、当然ながらその前に出版された樋田氏の本にも書かれてなく、あまり知られていない。X団とは1973.6.17の私の以下の武装宣言によって結集した20数人の第一文学部の男女学生による武装遊撃隊であった。革マル派の鉄パイプ武装襲撃が日常化して運動が窮地に陥った時期に結成された、新自治会防衛隊である。
「個体としての己の生を誰も代行的に他人に生きてもらうことがありえないように、個体としての己の意思・思想・感性の表現を己のこととして貫き、決して疎外させ代行させることなく、自らの言葉を以って語っていく、——これが最低限の原則ではないのか。とすれば、己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。
己のことばを表現を己から疎外させ誰かに代行させてはならない。同じ意味で、己の自衛権をゲヴァルトを己の肉体から疎外させ誰かに代行させてはならない。セクト主義的引き廻しを許さないと言う観点から言っても、種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にするであろう。」(「猫に鈴をとやせネズミ」、http://www.19721108.net/、1973年7月2日:このアーカイブのこの日付の場所にある。アーカイブについては後述。)
1973年7月2日の文学部武装中庭集会は革マル派の反撃がなく成功した。同じ日、彼らは明治大学和泉校舎の社会主義青年同盟解放派を襲撃した。学外での内ゲバへの純化が始まっていたのだ。そして、7月13日の二度目の文学部中庭武装集会の日、武装した二連協防衛隊とX団、そして集会参加学生の合計約80人の私達は(集会の周囲にも樋田氏ら武装反対の学生と期末試験を終えた約100人の立ち見)、約150人の革マル派鉄パイプ大部隊に包囲襲撃されてバラバラに潰走した。これは樋田氏の本に詳しいし二連協防衛隊の参加者(岡本厚氏:元岩波書店社長)の証言もある。しかし、スロープ脇の階段はバリケード封鎖されていて、場所が死角だった事もあってほとんど知られていないが、その時、私が指揮していたグレーヘルメットの鉄パイプ部隊X団本隊10名は、隠れていた体育局の地下から這い出して31号館前・生協戸山店の前に横隊を作り正門前の革マル派部隊へ突入寸前だった。しかし、私が号令をかけようとした刹那、正門前で鉄パイプ戦を闘っていた叛旗派が崩れて革マル派もスロープを駆け上がってしまい、X団は介入の機会を失い撤退せざるを得なかった。黒(行動委)でも白(革マル派)でもないグレーのヘルメットを被り、私ともう一人の新学生自治会の執行委員を含む一般学生が鉄パイプで独自に武装登場したのはこれが最初で最後だった。
ただ「X団女性別働隊」だけは、鉄パイプを振りかざしてスロープを突撃して上がって来る約50人の革マル派部隊に、スロープの真上、31号館202教室前の二階の廊下の窓から「人糞爆弾」を雨霰と投げつけ一矢を報いた。かなり命中したらしく彼女らは女子トイレまで追い詰められ、そのドアを鉄パイプでボロボロにされる恐怖に見舞われた。鉄パイプは振れないがやれる事をやるとした一文の女子学生達だ。また負傷者を救護するために救急箱を抱えた数名の女子学生のX団救対(=救援対策)班も現場で控えて参加していた。二連協を含めて第一文学部の男女一般学生はここまで組織的に闘った。1973.7.13は結果的に学生による学内最後の集会となったが、X団はまだ闘うつもりで、人糞を投げた女性部隊他も含めて、夏休みが終わる9月まで合宿や武闘訓練に明け暮れていた。
出来事は断片的に一人一人の記憶の底にあるものだ。問題意識がそれを繋ぎあわせる。この映画がそうだ。だがその前に実は、私達第一文学部の仲間は10年もの時間を重ねて数ヶ月に一度の定例会合を開き、川口大三郎君の死とは何だったのか,自分の今に至る人生でそれは何を意味していたかなどを語り合って来た。関係者に取材し、情報と記憶を整理し、その文字起こしをして膨大なアーカイブに残していた。(1972年11月8日―川口大三郎の死と早稲田大学、http://www.19721108.net/)全ての新聞などの報道、ほぼ全てのビラ、学生大会議案書、執行委員会声明、大学の告示や声明、他の関連資料がそこに統一的に整頓されて蓄積されている。代島治彦監督のインタヴューに一文の私達が応じ、各人がその持ち場から言うべき事を正確に言えているのは、それが理由である。従って、この映画を見た人で関心が深まったりしたならば、是非このアーカイブも見て欲しい。
三作の映画を作って来た代島治彦監督は、四作目のこの事件にそもそもどう向き合ったのだろうか。監督の個人史を詳らかにしない私はそこが分からなかった。しかし、その思いは監督の以下のクラウドファンディング呼びかけの中にあった。
「ところが中学3年生の三学期、連合赤軍同志リンチ殺人事件が発覚。その後、内ゲバという殺し合いがエスカレートします。軍国少年が戦争の敗北で平和・民主青年に転向したように、革命少年は先輩たちの挫折によって無関心・無責任青年に転向しました。」
監督は若くして社会問題に目覚めた自称革命少年だったが、1972年に起きた連合赤軍事件と川口君事件、そして内ゲバのエスカレートによってそこから斜めにズリ落ちたらしい。その自らの「政治的怯え」がキーワードなのだ。
「川口君事件は新左翼党派同士の連鎖的内ゲバ殺人の引き金を引いた事件だと言われています。その後、内ゲバで殺された若者は100人を超えていきました。この事実を目の当たりにし、政治に染まることに怯(おび)えた次の世代の若者=遅れてきた世代(私も含めて)は政治から遠ざかっていきます。そして、その政治的怯えは現在の若者までつづいていると私は考えます。二度と川口大三郎君のような『無意味な死者』を出してはいけない。私はその過去の政治的怯えの正体を明らかにすることで、その怯えを治癒したいと思いました。なぜ当時の若者は殺し合えたのか。痛かっただろう。苦しかっただろう。悩んだだろう。日本の若者を過去の政治的怯えから解放したい。未来の若者にのびのびと政治に、社会運動に、直接行動に関わってほしい。(中略)新作『ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜』には半世紀前の地層に眠る内ゲバの犠牲者たちが発する『生きろ』という祈りのイメージを込めました。過去の政治的怯えの正体を明らかにすることに成功しているかどうかの判断は観客にまかせたいと思いますが、とにかく『叛乱の時代』に当事者だった世代だけではなく、現在の若者たちに観てほしいし、考えてほしいのです。」
私はこれを読んでようやく分かった。「怯えを治癒したい」、「日本の若者を過去の政治的怯えから解放したい」、「『生きろ』という祈り」。それが代島治彦監督の原点であり、現在の表現の持ち場なのだ。最初に感想を述べたように、この映画は見事にそれを描き切っている。
私も未来世代へメッセージを残そうと6万字を越える詳細な「X団顛末記」を書いた(公開予定)。特に反革マル諸党派や全学行動委員会・団交実行委員会が大衆的な自治会再建運動を政治利用し独善的な前衛的行動に走った事を明らかにした。論述は全てを一次資料に語らせる手法で厳密に引用を示し、彼ら自身の過去のビラなどの言説でその実像を示した。ただ「X団顛末記」の主旋律は以下の自治会再建運動の実相であった。
革マル派の軍事力に圧倒されながらも、自治会再建運動は確かな手応えを創りつつあった。一つは多方面から評価された一文学生自治会「憲章」の「九原則」で、一言で言えばあらゆる政治党派からの介入を許さず自律的・創造的な自治会を打ち立てるとした宣言であった。これは樋田氏の著作にも全文掲載されている。これは私が最初の学生大会から二週間後に自発的に書いて、一文クラス討論連絡協議会・学生大会で一字一句そのままで承認されたものである。会議の前の晩に書いた時も一気呵成に書き終わり推敲はしてない。せめて8項目とか10項目にしようとしたが、時代と状況が書かせたのであろう、それ以上でも以下でもなかった。
1. セクトの存在は認めるが、セクト主義的ひき回しは一切認めない
2. 革マル派のセクト主義に対して、我々は大衆的な運動・団結をもって彼らの論理と組
織を糾弾していくのであり又、そうでしかあり得ない
3. 我々はセクトに所属している人間というだけで、その人の主張を無視してはならな
い。我々は具体的な事実、主張の下に初めて批判を行なっていくべきである
4. 意見の違いは大衆的な討論の場で克服していく努力をする
5. 我々の運動の質・形態・思想は常に運動の中から生み出され大衆的に確認していかね
ばならない
6. 我々は個人の、クラスの、サークルの自主的・自立的な闘いを促し、又その場を保障
していく
7. 我々は、我々の自主的活動に対しての一切の介入弾圧を許さない
8. 運動の方向性は常に様々な意識、様々な現実をもつ学生を考慮し、決して一人一人の
人間性を無視してはならない
9. 我々の手で我々の創造的な自治会運動を創り上げる
もう一つは筆者不詳の「規約改正委員会設立宣言」である。これは樋田氏の著作には一行も出てこない。しかしこれには核心をついた学生自治会ビジョンが見事にまとめられていた。
「規約改正委員会から №1. 1973.2.13
―ぼくらの未知の欲望が明晰さを生む―エリュアール
11.8川口君虐殺は、特定の政治セクトによって私物化された自治会が、各個人の自由な意思表示はおろか、生命を維持しようとする基本的権利さえ蹂躙することを、ぼくたちに明らかにした。革マル自治会の内実は、ひとりの若者をその青春の真っ只中で、文字どおり粉砕することで、誰の目にも明らかになった。それは、ぼくたちのおたがいに対する無関心と孤立を喰い物にして育った殺人者の自治会であった。いらい数ヶ月、多くの学友の怒りの糾弾のまえに「痛苦に自己批判」した筈の革マルは、その嘘を信じる者が彼ら自身しかいないことを見てとって、日ごとにその暴力的な本質を剥き出しにしてきている。現在、二文において、また社学において、革マルの卑劣な暴力により、殴られ蹴られてからだを壊されていく学友が、日ごとに増えつつある。夜行性の肉食獣のように、彼ら革マルは夜になるとその鋭い爪を剥き出しにして、襲いかかってくる。
革マルが早稲田に存在するかぎり、多くの学友が日々、また新しく傷ついていくであろう。ぼくたちは彼らを決して許さず、糾弾し続け、その政治セクトとしての息の根を断たなくてはならない。そのことは、ぼくたちが、革マルの策動の余地がないほどに、あつい信頼と連帯とを、おたがいのあいだに打ち樹てることによって、はじめて可能になるのである。
この数ヶ月間の闘いを思い起こそう。ぼくたちひとりひとりの怒りが連帯を生み、連帯が力と希望をもたらした。ひとりひとりの主体的な行為が多くの学友の支持によって、どれだけ豊かなものとなっていくか、多くの経験をぼくたちはした。そして共同の努力のもたらした感動のうちに、自治の本質に対する理解が、ぼくたちにやってきたのではないだろうか。各個人の自発性に根拠を置き、自由で豊富な人間関係を確かに、また持続的に組み上げていく努力を通じて、問題意識が(それは心のなかに不安として、痛みとしてある。)交流し、真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。
規約改正委員会は、各個人の自発性を促し、その創意にみちた連帯を保障するために、新規約を作製することを目的として設置され、またここに召集される。」
(http://www.19721108.net/、1973年2月13日)
川口大三郎君の死から三ヶ月後の、日々負傷者を出しながらの激闘の最中、この宣言は発せられ、以後、24回もの委員会会合が開催され、4月初旬には新自治会規約原案は完成していた。即ち、それが最後のハードルであった一文教授会による新自治会承認は目の前にあった。まさに「未知の欲望が明晰さ」を生みつつあった。それを阻んだのは、4月から激化した革マル派による無差別的襲撃であり、全学行動委員会や全学団交実行委員会による5月の総長拉致事件であり、6月の反革マル派諸党派による全面武力介入であった。
この規約改正委員会設立宣言に学生自治会の根源的な革新の萌芽があった。一見、内ゲバとは関係ないように見える。しかし、ここに党派による学生自治会の一元的支配と裏腹の内ゲバを根底的に批判する視点が入っている。「真実の共同的努力のうちに、自立的な人間へと相互に高めあっていくことが、自治の内実ではないだろうか。」とあるが、私達は革マル派の拳や投石や角材や鉄パイプの洗礼を浴びながら、こうした認識を育て共有しつつあったのだ。圧倒的多数の学生が支持し、学生大会で決議されたこの自治の内実が育って現実のものになっていれば、一つの政治党派が一元支配するような学生自治会ではなくなる。また、それを諸党派が奪い合うような荒れた政治文化も消滅しただろう。内ゲバの根を絶つのは、こうした自律的な学生自治会が健全に育ち、相互に交流し合いながら社会的課題にも共同して取り組むという、世界では当たり前の民主的な学生文化・大学文化である。
この映画の元になった『彼は早稲田で死んだー大学構内リンチ殺人事件の永遠』が描いているストーリーは、革マル派の武装襲撃で自治会再建が結実しなかった事、それが結果的にその後の激しい内ゲバのきっかけになった事である。しかし運動内部の自衛武装を巡る不一致をクローズアップし暴力反対という視点だけでまとめ過ぎている。
武装・非武装の議論は闘う者の真剣な議論であり、X団でも武装しないでレポセンター班・偵察班・救対班で闘う選択をした者もいたし、鉄パイプではなく人糞爆弾で武装した女性達もいたのだ。やれる事をやるとはまずは闘うという事だ。暴力反対と唱えて何もしなかった者よりは革マル派に人糞爆弾を投げつけた女子学生達の方が筋を通している。私達の抵抗運動の本質を鮮やかに表出していると私は思う。救急箱を抱えて待機し、眼前で負傷した学友ほかを救護する為に恐怖を押し殺して走った救対班の女性達も、非武装だったが闘ったのだ。その一人は、当初の鉄パイプ武闘訓練に参加し、重くて振れないと悔し涙を流して号泣した女子学生だった。私はX団の鉄パイプ武装本隊と人糞爆弾武装・女性別働隊、非武装後方支援の一人一人の奮闘を忘れない。私達は普通の学生だった。女性別働隊から大学教授一名、著述家一名、本隊から弁護士一名、写真家一名、私を含めて大学教授二名(もう一人は早大教授。彼の定年まで私はX団を公表しなかった。)が出ている。
武装してもあの革マル派の全国動員のプロ部隊に勝ち目はないと嘲笑って何もしなかった者もいる。嘲笑う前に、それが既に屈服だと知るべきである。問題はその物量ではない。仮に完全非対称の武装によるゲリラ戦であっても、やれる形で精一杯の抵抗を続ける事、それで理不尽な武力制圧に対する不服従の意思を示し、忍従しはしない精神性を維持する。そこに大学と一体化した構造的暴力に対する最終的な勝利への道筋が残るのだ。四半世紀後に革マル派は早稲田大学から完全追放された。革マル派の軍事力には屈したが、決起した全学の学友の前史なくしてそれは起きなかった。1973年の私達の敗北後、早稲田大学の学生は(シラケと怯えかも知れぬが)革マル派を相手にせずその復権を許していない。大学も反社会的集団革マル派を切り離し、一体化された構造的暴力から大学を解放した。不服従運動は時を経て最終的には勝ったと思う。
樋田氏の著作では運動経過がドキュメンタリー・タッチで描かれており、私達はどのような自治会を作ろうとしていたかという、失われた希望が語られていない。それは先にも記したように、究極的には内ゲバをも廃絶する大学文化を創造しようとするものであった。それが後世の読者に対して最も重要なメッセージであるはずだ。政治的暴力支配のない自由な早稲田大学、それは目標であってそれへ向けて私達は何を考えいかに行動したか、それがこの運動の最も大切な原点のはずである。
文学部教授会も「自治会再建への動きを高く評価しており」(1973.4.9)としていた。(http://www.19721108.net/、1973年4月9日)新自治会と教授会はほとんど歩み寄っていた。多くは鬼籍に入られたであろうが、文学部教授会の先生方のご理解とご尽力に対し、私は学生大会で選ばれた執行部の一人として深甚なる感謝の意を表しておきたい。また、本部学生部長も「一文の執行部は現在ある交渉団体としては唯一のものなので、新執行部と呼びたい」(1973.5.7)と新自治会承認を目前にしていた。学生部長のこの記者会見が全学行動委員会・全学団交実行委員会による総長拉致団交事件の前日であった事は記憶すべきである。
総長拉致団交事件の5月8日以降、革マル派は全面的な武力制圧で一般学生部隊を公然と襲撃するようになる。樋田委員長も5月14日に襲撃されて重傷を負った。1973.5.17の総長団交予定日、団交拒否はされたが本部キャンパスは多数の学生が集まり騒然とした。全学部の中で最大規模で本部キャンパスに登場した一文の学生大衆約300人のデモ隊は、私が指揮していたのだが、大隈銅像の脇で革マル派の鉄パイプ大部隊に襲撃されて多数の負傷者を出した。デモ隊の後方から襲撃されて、雪崩のように総崩れになった徒手空拳の学友達。その半数は女子学生だった。これを体験したか或いは見たか否かで運動への思いは違って来る。デモ指揮で先頭に居た私は全ての学友が逃げ去るまで立ち尽くし最後に踵を返した。鉄パイプの打撃を頭や肩に浴びながら、この時、私は心の奥深くで武装を決意したと思う。こんな事が許されていいはずがない、と。
総長拉致の首謀者・政経学部の臼田氏は、拉致計画について「『やりましょうか』と言って『いいですよ』みたいな軽いノリで、あまり深く考えていなかった。」と述懐している。(http://www.19721108.net/、1973年11月19日)残存していた全共闘世代のこのような軽薄な「ノリ」で、内ゲバの根を絶とうとした歴史的な自治会再建運動は、逆に内ゲバの嵐に全面的に巻き込まれて行った。
幸いに川口君のクラスの一文関係者を中心とする10年に及ぶ血の滲むような執念で、自治会再建運動を跡づける資料がほぼ完全にアーカイブとして残っていて、50数年後の今日も読むことができる。私は全ての資料を渉猟して「失われた希望」を探し、当時の私達の意思と思想が刻印された二つの言葉を掬い上げた。それが「九原則」と「規約改正委員会設立宣言」である。この「九原則」と「規約改正委員会設立宣言」をどう読むか。それが、「あの時代の当事者と現代の表現者が交差したこの映画は未来世代に何を残すか」と、サブタイトルで私から問いかけた本質的な問いであり希求である。
私達は徒に敗北したのではない。あの激闘の中で紡ぎ出されたこれらの言葉には重みがある。しっかりと歴史に刻まれ世代を超えて伝えられる事を望んでいる。内ゲバの時代とは何であったか、自由な早稲田大学と云う希望は何であったか。私達にとって、川口大三郎君を追悼するとはこの二つを抱えて生きていく事である。私達と代島治彦監督はここにおいて交差し、共通の希求を未来世代に対して投げかけていると私は思う。
一人一人の自衛権は正当な人権の一部であり、運動としての対抗暴力にも世界は理解を示すことが多い。しかし、強いられたとはいえ武装などと云う物騒な出来事は人生において起きないに越した事はない。そう云う事がキャンパスで二度と起きない事を祈りたい。ともあれ、樋田氏の信念と執念の著作によってこの事件と運動は知られる事になったし、映画化もされた。(そのタイトルは、新入生歓迎実行委員会委員長として私が編纂した『彼は早稲田で死んだ』からそのまま採っている。シンプルな題が良いとそう決めた覚えがある。)当事者の私達もそれぞれが半世紀前を再考する機会にもなったし、また再会できてもいる。著作は樋田氏の歩んで来た人生の一つの結実なのであるから、当時の意見の不一致や立場の相違を超えて、ご尽力に対して深く感謝したい。また、代島治彦監督に対しても、ここまで深く「井戸を掘り下げた」事に対して心から拍手を贈りたい。
(2024年4月12日)
(元日本福祉大学大学院国際社会開発研究科・
国際福祉開発学部、教授:国際開発学)