ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

金原由香「事件の謎、検証で迫った全貌:ゲバルトの杜ー彼は早稲田で死んだ。(朝日新聞、2024.5.24、夕刊。)

 映画評論家と映画ジャーナリストの違いを考えた。藤井仁子氏は映画研究者で「禄を食み」、且つ映画評論家でもあるようだ。映画の研究と評論の狭間に有意の差異と相互補完性があるような文章を、師匠を語る文章で書いていた。研究は研究だが評論にまで突き抜けなければならぬらしい。枯れる、と云う事なのだろうか。

 金原由香氏は映画「ジャーナリスト」を名乗っている。私は映画界に疎いからもちろん初めてお目にかかるお名前であり、初めて彼女の文章を読んだ。

 「謎が多い」と問題設定がまずあり、川口君の「否認」、「躊躇ない暴力」、当の学生の「暴力への自覚」、教員が「踏み込まない」、といずれも的を得た疑問を列挙する。そして後半において、「自治会のあり方」と云う本質論に切り込んでいる。

 藤井仁子氏のこの映画批評の、煮え切らない業界内ジャーゴンの羅列に比べれば、極めて爽やかにこの事件の中心に、羊羹をスッと切るように音もなく踏み込んでいる。これが「ジャーナリズム」であるな、と感心した。おそらく様々な映画を論じる際に、その情況的背景に気配りするのが習い性になっているのだろう。

 60年代の学生運動の前提の「大学の自治権」、当時のその「不均等」を指摘し、それは「今の学生にも重要な課題」とスパッと結論まで羊羹を貫いてしまう。そしてそれが「今作では深掘りされず」と私と同じことをさりげなく数行で喝破する。文章にも無駄がない。監督が「タイトルの『ゲバルト』が象徴する暴力の連鎖に、より関心を置く。」と、我々当事者の代弁を頼んでもいないのにやってのける。何なんだこの女は、と言いたくなるくらい見事である。

 結論がまたいい。「学生運動の痛みをまだ、鎮魂歌にしてはいけない。」と来た。そこだ。

 我々は川口君の無念を引き受けてとずっと彼と共に生きている。「生きていく限り、早稲田解放闘争は終わらない」が我々の合言葉である。よろしい、それは当事者の特権的言い草であるとしよう。だが、我々の自治会再建運動は内ゲバ的状況を超克しようとするものであった。我々は後の世代の問い「なぜ内ゲバが」ではなく、「なぜ内ゲバを超克できなかったか」という自責を生きているのだ。それが川口君が身をもって残した生き様である。生きているのだから、鎮魂にはまだ辿り着いていない。永遠の未失の鎮魂である。

 それが故に、次世代に継承してもらいたいのだ。「今の学生にも重要な課題」でもあると。自治会運動をやれと言うのではない。例えばパレスチナの不条理があるならば、世界の学生たちが立ち上がっているように、日本の若者たちも立ち上がって欲しい。今、早稲田で一般学生がガザ連帯の政治集会を始めているが、まさか革マル派が鉄パイプで襲っては来まい。せめてそのくらいの遺産を我々は残したのだ。

 鎮魂歌よりも未来へ向けて祈ってほしい。祈るということは闘うと云う事だ。

 代島監督は犠牲者への鎮魂としてこの映画を作った。そこに当事者の我々と僅かだがずれがある。でも、遅れてきた世代の真摯な立ち位置であり、大事なずれだから、映画を見る人々はそこに気がついて欲しい。金原由香氏はそこに気がついている。感謝である。