ynozaki2024の日記

私的回想:川口大三郎の死と早稲田解放闘争

再掲:構造的暴力:平和学のキーワード、

 再掲します。なぜか、Twitterを引用したせいか、それが画面に現れていた。私の文章が読めなくなっていたらしい。くだんの、その方からご連絡があった。情報もそうですが、ご関心とご好意、ありがとうございました。

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 ご親切な方がおられて、#ゲバルトの杜#とタグをつけられた上で、下記の話を紹介している。

 平和学のヨハン・ガルトゥングさんが「構造的暴力」を使って来たそうだ。浅学の私はそれは知らなかった。

 代島監督に取材を受ける前の日に、取材を受けるに際してのメモを作っていて、ふとこの言葉を「案出」した。2022年11月だった。開発学では構造的貧困などを良く使うので、そこから発想しただけで、別に自分が造語したとは思ってない。ただのアイデアで、自分で作って自分で納得していた。監督にも説明を求められて得意になって説明したが、ヨハン・ガルトゥングさんが使っていたのを知っていれば、用いなかったと思う。

 この言葉を中見出しにして「X団顛末記」をまとめ上げた。その過程で、種々のモヤモヤが晴れていくような思いをしたので、概念の彫琢は大切だと思った。今回、平和学で用いられていたのを知ってその想いは強まった。この言葉で平和への確信を強めた学徒は多かったのであろう。遅ればせながら、私も平和学の真髄に改めて触れる事ができたのは幸いである。

 そう言えば、昔、平和学会の研修会か合宿か何か忘れたが、求められて講演をした事があった。正直に書けば、抽象的概念をひねくり回す平和学が何になる、と云うような気概が、開発現場上がりの私にはあった。今回、この言葉の由来を教えられて、その思い上がりは消え、平和学が身近になった。少なくとも平和学会と私の間は平和になった。

 無知を知れば謙虚になれる。年齢を重ねるとだんだん丸くなるものだが、それは知識や経験が増えてそうなるのではなく、まだまだ未知の事柄が多く、生きている間にそれを知ることはかなわないのを思い知るからだろう。自分が無知であることが否応もなく分かって来るのだ。構造的暴力と云う言葉も、それを一つ私に教えてくれた。

 

 概念の彫琢だが、今度書こうと思っているのは「内ゲバの定義」である。この映画のおかげで多くの人がこの言葉を使うようになっている。だがその意味は千差万別だし、一知半解のまま手前味噌で使う人もいる。映画を紹介しているマスコミの記者に多いので困りものである。それでは、せっかくの原作とこの映画の意味が半減する。半減するどころが、下手をすると歴史認識の逆行や、強者に都合の良い世論も誘導されかねない。まとまり次第、ここに書くことにする。

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故ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」は貧困や差別、抑圧といった行為主体が明確でない不作為による暴力
これが無い状態を「積極的平和」という
構造が見えにくい故に見たくない故に「構造的暴力」なくならない
自ら壁を高く厚くしていないか?